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若き友に占守島の話をしたい

核兵器絶対反対を標榜する大江健三郎は「ヒロシマノート」の中で「できるのは祈りだ」と書く。蹲って、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して強く祈れば、我らは安全と生存を得られると・・
「神に祈れば恩寵がある」と・・なるほど・・では聞きたい。どの"神"ですか??
あなたが身を任せる"神"は、ドレなのか?もし恩寵を得られなければ、あなたが「殉死」するつもりである"神"はドレなのか・・

実は、僕は信仰をもたない。
敬愛するラビに「神との契約」についてお話を伺った時にも僕が投げかけた質問があります。
「先生、契約はミズテンでするもンじゃないと思います。ましてや認識が無いうちに"した"と言われる契約なら、ぜひ神様自身が持ってきて見せてほしいです、いま。死後じゃ困ります。いまです」
ラビは顔をしかめました。嫌な弟子ですね(^o^;;

ご推察とおり、僕の行動原理はタムルードが指さすものに酷似しています。僕は神のヒトらに対する善意を信頼している。・・しかし、信じてはいないのです。身を任してはいない。実は「身を任す」ことそのものを神は望んでいないだろうと思うからです。もし。で・ない、としたら、神は我々に「選択の自由」を与えない。
「選択の自由」とは、身を任すな・オノレで考えろ・オノレで決めろ・・です。

僕は聞きたい。
もちろんあなたは、以下の美しい"宣言"がどこに書かれているか、ご存じですよね?
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という美しい宣言・・
ここに朗々と書かれている"決意"は、まさに祈りです。
でも・・少なくとも僕にとって「祈り」とは・・いつでも感謝とご報告です。決して願いを/欲を、だれかに/逢ったことないどっかの神に託すことではない。
したがってこの美しい宣言は、素晴らしい言葉の羅列ですが、僕には何の機能を持っているとは思えない。「諸国民の公正と信義を信頼」するだけで、オノレの「安全と生存」が保持できるとは思えないからです。
少なくとも、僕には日本の近隣国が「公正と信義」が腹の底まで染み込んだ国家だとは思えない。
如何にして守るかの具体的な「方法」を持たない国家は蚕食されます。

本日は8月17日です。8月18日から「占守島の戦い」始まりました。
僕は、15日の「敗北宣言」の日ではなく、17日だからこそ「占守島の戦い」を見つめながら、貴君に向けてこれを書きます。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました