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LAST FRIGHT OF SAIGON#20/長いクロージングテロップ#02

はじめはおずおずと。少しずつ羽を広げて。しまいには大胆に。僕は街を彷徨った。そして僕はニューヨークが大好きになった。
ニューヨークを「人種の坩堝」だという人がいる。嘘だ。坩堝ではない。絶対に溶け合ったりはししない。ニューヨークは「人種のサラダボール」だ。
人参は人参のまま。胡瓜は胡瓜のまま。パセリはパセリのまま。ある。決して溶け合うことはない。常に自己を持ち、その自己の超過多構造がニューヨークという街なのだ。
ニューヨークは、「世界」というもののミニチュアサイズ。そう考えると、この街の実態が見えて来る。通り一本を挟んで中国人とイタリア人が共存共栄し、ブラジル人がイタリア人が、スペイン人がギリシャ人が。同じ空間と同じ時間を生きる。
そうだね。。こうイメージすると判るかもしれない。ニューヨークに生きる日本人は6万人程度だ。この6万人と言う数字は、日本国内の小都市くらいの員数である。つまり日本の小都市くらいの人口があの街で生活しているのだ。実はこれは他の国の人々も同じで、各国の小都市くらい国民がニューヨークで生きている。つまりまさに世界中の国の小都市が、この街ニューヨークに超過多構造的に重なっているのだ。そんな街は、世界中にただ一つもない。パリでさえ違う。ましてや東京も。

ヒロさんに付いて出かけるジャズクラブが生活の中心だったけど、街歩き・古本屋歩きも日課だった。座右の友はヴィレッジボイスで、毎週木曜日に出るこの地元紙を、それこそ一週間で擦り切れるほど見た。
ヴィレッジボイスには、イベントとの開催情報。求人・出会い求む・売ります・買います・探してます・・等々。まさにニューヨークの縮図が載っていた。

ニューヨークに暮らすようになって、ひと月くらい過ぎた頃、このヴィレッジボイスで「IMSAI 8080キット売りたし。400ドル」という投稿を見つけた。ビックリした。
イムサイ8080はIMS Associates Incが発売していたキットで、intelのi8800を内挿していた。
僕はポピュラーサイエンス誌の読者だったので、その存在は知っていた。400ドルは格安なので、すぐに電話をしてみた。電話に出たのはジャコモというCUNYの学生だった。イタリア訛りが強くて、何を言ってるかよく判らないところも有ったが、ペンステーションの傍にラボが有るから来いと言われた。
行ってみると、衣料系の倉庫が詰った老朽ビルで、その一つを借りて「ラボ」と称しているものだった。ジャコモは、寝起きも此処でしていると云う。
「ペンステーションが近いからな。大学に行くのにはここが一番便利なんだ。」彼が言った。
イムサイ8080は途中まで組み立てられていた。
「どうしたの?」僕が聞く。
「持ち主が死んだんだよ。」
「死んだ?」
「ああ。クスリでな。アタマ良い奴だったが、ラリパッパーだったんだ。それで。死んだ。」ジャコモは事も無げに言った。
「それじゃ、コレはそいつのもんなんだろ?」
「ああ。でも家賃を溜めてやがってな。金が有ると全部クスリに浸かっちまってたんだ。ここのガレージは、そいつと共同で借りたんだよ。大学の側じゃ研究の秘密が守れないとかなんとか言われて、その気になって借りたんだ。でもこれ以上、家賃を払わないと追い出されるんだ。だからこれを売って金を作ることにしたんだ。もし良かったらDECをディブレイ用に付けるし、周辺もリースアウトのものを色々買い込んでるから、あげるぜ。」
僕は迷った。でもこんないい話は、そうはない。結局その場で買うことにした。
その夜、イムサイ8800と色々物色した周辺機器はジャコモの旧いダッジに載せられて、僕のアパートメントホテルへ運ばれた。そして僕は一文無しになった

仕方なく、ムズかる婆さんを宥めすかして、アパートメントホテルの電話を借りた。そしてコレクトコールで日本に電話した。お金を預けてあるマネージャーの三舟さんにだ。
「とりあえず2000ドル、送ってほしいんです。」
「あいよ。明日、やっとくよ。」
三舟さんが快諾してくれた。ところが、このお金がいくら待っても来ない。あっと言う間にひと月が経ってしまった。
アメリカには現金書留なんぞという便利なものはない。銀行送金するための口座をアメリカ側で持っていなければ、封筒に入れて送ってもらうしかないのだ。痺れを切らして、もう一度、日本へ電話してみた。
「もう一回、送るか?たとえば500ドルずつ、四つにわけるとかして、送ってみるか?」三舟さんが言った。まさかもう一度、UPSの冥海にお金を投げ込んでみる気はしない。
「いや・・いいです。なんか考えます。」と言うしかなかった。
仕事はヒロさんの紹介で、やり始めていた。ミッドウエストの日本領事館の近くに点在する日本人相手のカラオケバーでのピアノ伴奏だ。アメリカは組合のカードがない限り、演奏活動はできない。出来るのは日本人バーの店員になって、店員としてそこのピアノを弾くくらいものなのだ。
僕はトラで、転々と日本人バーでピアノ伴奏をした。
このとき、はじめて「銀座の恋の物語」という曲があることを知った。「赤いハンカチ」も「カスバの女」も。そしてステージの最後に演る「さよならルンバ」も知った。
  このまま お別れしましょう
  あなたの言葉のまま
  ダリアの花びらさえも
  恋の時すぎりゃ 色はさめる
  ああ さめた後から
  いくら泣いて泣いて 泣いてみたとて
  かえらぬ 恋の終わりは
  しおれた 花びら
  さよなら さよなら さよなら
毎夜毎夜、これと「そっとおやすみ」を演った。
酔客を相手に唄伴をやったあとに、かならず毎夜これを弾く。もちろん原曲は知らない。店に置いてある赤本と呼ばれていた譜面集を見ながら弾くのだ。赤本はイントロのメロディと主旋律。コードと歌詞が書いてある本だった。酔客の音程に合わせてキーを上げたり下げたりしながら、全く見たことも聞いたこともない曲を弾くわけだが、もちろん原曲のテンポもリズムも判らない。この本だけを頼りに、僕は手探りで歌謡曲の杜を、夜な夜な彷徨った。そしてへとへとになった。
ようやく仕事が終わると、アッパーウエストのアパートまで歩いて帰る。真夜中のセントラルパークに沿ってトボトボと。。頭の中に、さっきまでの酔客のガナリ声をいっぱい詰めて歩く毎日だ。
この仕事は、ほんとに辛かった。
歌謡曲の其処は彼とない哀愁感は嫌いではない。でも酔客のガナリ声と下卑た態度は、嫌で嫌で堪らなかった。だから42丁目の裏に有った中華料理屋で皿洗いのアルバイトが見つかってからは、夜の酔客相手の唄伴は一切しないようになった。
昼間は街を彷徨い、古本屋を歩き、ペンステーションの傍のラボでプログラムを書くのを手伝う。そしてそのまま夜は、ポートオーソリティの傍の中華屋まで出かけて、皿洗いをする。深夜、帰宅したらIMSAI8080を弄る。
そんな生活を送って、僕の最初のニューヨークの半年は終わった。
灰色に塗られた日々は、NYCでも灰色に塗られたままだった。
でもその灰色は、もしかすると少しだけ明るい灰色になっていたのかもしれない。きっとそれは、NYCに恋した・・からかもしれない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました