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東京島嶼まぼろし散歩#24/伊豆諸島04

大島/三宅島間ヘリポートの途中、暫らくは身体をかたくしていた嫁さんだったが、そのうち景観に見とれて「ねえ、船よ・船が幾つもいる!」と喜び始めた。実は次の移動もヘリを考えていたんで、ひとまず安心した。ぜんぜ拒否だったら、船便にかえなきゃならないからなぁ~
三宅島空港に着くと・・まあ、何もない空港だった。カリブの小さい島の空港によく似て、小さいターミナルがあるだけの空港だ。
送迎は「さくまタクシー」という会社にお願いした。泊まりは「やまのべ旅館」三宅島で唯一の旅館と名乗るホテルだった。
https://miyakejima-yamanobe.com/
「老舗なんですよ。お二人で切り盛りされてる」とTAXIの運転手さんが言っていた。
たしかに、写真で紹介されているより古びた感じだった。
嫁さんの反応が気になったが、何ともなかった。
「旅館なんて、初めてね」と意外に喜んでいた。
部屋は和室で六畳に大きな窓が有って野趣溢れた庭を向いていた。食事はご赦免料理というのが押しらしい。
とりあえず、食事の前に少しだけ何か欲しくて囲炉裏のある部屋に移った。嫁さんが写真を撮りまくっていた。
・・でも、座布団にベッタリと座るのは。。ちょいと僕にはきつい。
「薩長明治政府が伊豆諸島を東京府管理にしたのは明治11年だった。」
「え~でも幕府の直轄下だったんでしょ?なぜ11年も東京から切り離されたの?」
「反物以外は、ロクな産業はなかったからな。伝統的に幕府の直轄下だったとしても、地方からやってきて唐突に国の支配者になった連中には伊豆諸島を誰の管理下に置くかなんて、まったく重要な課題じゃなかったんだろう」
「流刑は廃止したの?」
「してない。明治天皇の大恩赦があって、徳川時代の流民は朝敵重罪じゃない限り放免されたんだが、今度は自分たちに仇名す連中を島送りにしている。やってることは替わってない。伊豆島嶼を仕切っていた三井家は、そのまま明治になっても絶対的な支配力を維持してた」
「じゃあ、何のための"維新"だったの??」
「維新の風は島までは届いていなかったんだ。まあそれでもとりあえずの管理体制は必要だからな。明治政府は韮山代官所を韮山県にした。維持諸島はこれにまずブル下げた。明治2年(1869)7月19日だ。知事は代官だった江川英武が就任した。しかし韮山県に入ったのは八丈島と青ヶ島以外の島だ。八丈島・青ヶ島は相模府になった。おそらくロジスティックを握っていた三井への配慮だろうな。
・・これが明治4年の廃藩置県で小田原県、荻野山中県、韮山県が統合されて足柄県になったんだ。当然、伊豆諸島は足柄県の管理下に入った」
「足柄県ってどこに有ったの?」
「神奈川県の西側かに伊豆半島が足柄県だ。 足柄県は第2次府県統合のときに分断されて神奈川県と静岡県になった。明治9年だ」。この時に伊豆諸島は、伊豆半島と共に静岡県へ統合された」
「平安時代に戻ったわけね」
「ん。太政官指令の第一号で伊豆諸島は東京府の直轄地になった。明治11年(1878)1月11日だ。実は『太政官指令』には明治天皇も内務卿・大久保利通もサインしていない。内務省からは前島密が来たんだ。これほど重要な指令に、なぜ明治天皇はサインしていないのか?その話は別の時にしよう」
「またまた枝葉に散らばるからねぇ。でもなぜ伊豆諸島が江戸→東京の直轄地に戻るのに11年もかかったの?」
「明治政府は、その10年、潰れるか潰れないかの瀬戸際で喘いでいたんだよ。伊豆諸島は江戸中期から三井家が実効支配していたから、逆に言えば施政者の首が入れ替わっても何も被害はなかったんだ。この時期に大きな飢饉はなかったし、薩摩芋が安定的に獲れていたし、交易も細々だが成り立っていたんだ。伊豆諸島の持ち主が誰に成ろうが、三井家の支配がズレなければ、島は貧しいながら安定していたんだよ。」
「なるほどねぇ」
「ま。それでもタテマエごとはある。お座敷を外されていたはずの内務卿大久保利通が、太政大臣三条実美に東京府への伊豆諸島移管の理由について、七島の裁判事務が東京裁判所へ帰属したため、行政事務を円滑に遂行するためにも、東京府への移管は静岡県と島民の双方に大きなメリットがある、という上申書をだしている。
そしてその年、明治11年の7月に太政官布告として郡区町村編制法というのが出された。これは全国に郡・区・町・村の設置を定めるための法律だ。この法整備はわりとずさんだったので地方で一揆が沢山起きてるんだがね。これを改正し新しい法が加わえたのが明治13年の4月8日に手ている。この7条に「此編制法ヲ施行シ難キ島嶼ハ其制ヲ異ニスルヲ得」とあるんだよ」
「どういうこと?」
「島嶼は・・ここでは伊豆諸島は・・別に管理体制を置くよという意味だ。明治政府が考えた税収獲得のための町村制度から除外したんだよ」
「なるほど。町村制に無理やり振り当てても経費ばかりがかかって税収が見込めなかったわけね」
「それで長崎県/鹿児島県/伊豆諸島その他には、町村制に代わって島司を置くことになったんだ。勅令第5号・地方官官制・第46条だ。もちろん大抵のところでは新任者を中央から送ったわけじゃない。土地の地役人がそのまま島司と名前を替えただけだったんだけどな。
その島司のために大島/八丈島だけには島庁が置かれた。明治33年(1900)だ」
「大島と八丈島は、とっても大事なポジションにいたわけね」
「ん。島のロジスティックはこの2つに集約されていたしな。産業が唯一成立していたところだ。ようやく町村として認められたのは明治40年勅令第46号「島嶼町村制」でね。この時から島の名主は村長と呼ばれるようになった。ようやく国の管理下に入った・・というわけだ。その島庁も大正15年(1926)には廃止されて、東京府大島支庁/八丈支庁になっている」
「長い変転ねぇ」
「ん。・・もうひとつ」
「なに?もうひとつ??」
「小笠原諸島だ。長い間無人島ばかりだった。生活するには平地が少ない。それでもアメリカで捕鯨業が盛んになると、停留地として幾つかの島にヒトが棲み始めたんだ。もちろん日本人ではない。これを重く見た徳川幕府は外国奉行水野忠徳を団長とする派遣団を送った。


派遣団は、父島、母島両島を測量して地図や真景図を作成し、島民の名前や年齢、妻子の有無を記録している。そして小笠原諸島が日本領であることを宣言してるんだ。そして彼は八丈島の島民たちに小笠原への移植を奨励したんだよ。」
「移植はあったの?」
「あった。水野は原則入植者は夫婦と指定した。男女各15名、計30人の移住が行われた。文久二年8月に大工や鍛冶屋ら8人とともに父島へ入植したという」
「へぇ~でも、それって徳川幕府の時代でしょ?」
「ん。入植者は断続的だが続いたんだ。めいじにはいってもね。それもあって小笠原が国際的にも日本領と承認されるようになったんだよ。明治9年(1876)のことだ。
この小笠原諸島が、内務省による管轄を経て東京府に移管されたのは明治13年(1880) だ。郡区町村編制法整備の時だよ。このときに父島へ東京府小笠原出張所を設置してる。」
゜でも捕鯨船に関係した外国の人たちも住んでいたんでしょ?」
「ん。アリューシャン系の人々もいた。明治15年に父島の東京府出張所が彼らに日本人への帰化を推奨している」
「帰化したの?」
「ん。全員が日本人国籍になった。そして伊豆諸島に合わせて、小笠原出張所は明治19年から小笠原島庁になったんだ。でも父島/母島/硫黄島に町村制が施行されるにはまだまだ時間がかかった。第二次世界大戦が始まる直前昭和15年4月1日だ」
食事の後、温泉へ行った。人口的な雑音が何も聞こえてこない夜だった。部屋に戻ると、敷いてあった布団に潜り込みいつのまにか寝てしまった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました