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LAST FRIGHT OF SAIGON#14/オペレーションニューライフ

オペレーション・ベビーリフトと共に実行されたのがオペレーションニューライフOperation NewLifeである。これは南ベトナムから避難を望む人々のための作戦だった。この作戦は大っぴらには言えなかった。南ベトナム政府は海外への避難を禁じていたからだ。

https://drive.google.com/file/d/101Qde8xsmxrSQdP3JYMIx9H6fCjXSwOa/view?fbclid=IwAR1EhN2pTY0Qir5nSolmvetGRh7ENVNMZqPrHvyYFRH6zk-ZZBDV8nWhGTw

アメリカ側の責任者はリチャード・T・ドゥルーリーGeneral Richard T. Drur将軍(第834航空部隊)だった。彼の管理下でオペレーションニューライフは375回実行され、5万人以上のベトナム人を運んだ。具体的には4月4日から28日の間に、第60、62d、63d、43、438空輸部隊のC-141スターリフターが昼間。第374、314空輸部隊のC-13が夜間に実行した。これらのオペレーションはベビーリフトと屡々重複した。ドゥルーリー将軍はなるべく早急に/大量にベトナムから人々を避難させるために担当空輸部隊をフル回転させたのである。その孤軍奮闘ぶりを見かねたワールド・エア・ウェイズの社長であるエド・デイリーは、当時在ベトナム大使だったグラハム・マーティンに民間旅客機輸送機の供出を申し出た。大使はベトナム国民の国外避難には批判的だった。アド・ディリーはこれを説得した。
それもあって、実はオペレーション・ニューライフは、とても珍しい軍民共同の難民救出作戦になったのである。


こうしたドゥルーリー将軍の精力的な動きをフォローするため、アメリカ海軍はグアムに緊急の避難キャンプを13ヶ所設営。フィリピン・アンダーセン空軍基地にも次の中継地へ進むための一時避難キャンプが設営された。この経路を通して運ばれたのは112,000人に及んだ。

僕が足止めを食らってグズグズと屯していたU-TAPAOの基地にもたくさんの314空輸部隊のC-13や民間委託会社が乗せた難民が到着し始めたのも、この時期からだった。
空港には続々と手荷物だけを持った悲壮な顔のベトナム人が家族と共に到着した。そして空港横に急場で作られた施設に入り、次の中継先へ移送されるのを待つ・・という光景が続いた。

・・なぜ、そんなときに僕がU-TAPAOにいたかは、以前書いたのでここでは触れない。
しかし戦火がサイゴンに迫ると、オペレーション・ニューライフの敢行は次第に危険なものになっていった。4月24日、C-130がサイゴン地域に入り降下し始めたとき、地上から一斉に対空射撃が有ったため、C-130は深刻な損害を受けた。この時から対空射撃が常態化した。2日後に2基C-130とC-141が被弾して損害を受けた。
事態を重く見たドゥルーリー将軍は4月27日に空路による輸送を停止した。そして28日タンソンニャット空軍基地に近づいた南ベトナム軍は基地を砲撃、停機していたC-130が破壊された。
こうしてオペレーション・ニューライフは終了した。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました