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モーゼの「出エジプト」というアイデア02

唯一神というきわめて特殊な考え方の(おそらく)始祖であるアテン神信仰が生まれてくる背景について、少しだけ触れたいと思います。
先ずメソポタミアとエジプトにおける治世構造の違いから見てみましょう。
エジプトは、周囲を砂漠と海に囲まれ外威が少ない地形だった。彼らの覇権闘争は常にナイル川流域の王たちによって行われた。ある意味で自己完結的です。比してメソポタミアは常に外威との戦いだった。チグリス川を越え、あるいはユウフラテス川を越え、様々な異民族が、その肥沃な三日月地帯を求め侵入してきた地域です。したがって否応なく多民族文明だった。おそらく言葉も中々通じないような民の集合体だったのではないか?そう考えてしまいます。
それを統治するためには「明文化された相互矛盾しないルール」が必要です。阿吽の呼吸や暗黙の了解は、同じ地祇のもとに育った者の間しか成立しない。こうした多民族国家...だった(それも何度も治世者が入れ替わった)メソポタミアにおいて「法」という概念が発生したのは、きわめて必然的だったのではないか?そう思ってしまいます。
メソポタミアに生まれた(おそらく最古の)法という概念は、精緻で具体的なものでした。そして"文字化"したものだった。この文字化されるということ。文字化され箇条書きにされた文の集合は、互いの文が示すことについて、矛盾を嫌います。「法」を明文化することは極めて意味のあることなのです。その最も知られている例がハムラビ法典ですね。
つまり、言い換えるとメソポタミアは「法によって道義感・道徳観」を確立させた文明だったということです。

そんな風に捉えてみると、エジプトは全く異質な文明だった。その長い歴史を通して見ても、ハムラビ法典のような細部に亘る法律は存在しないのです。・・存在しないという事は、いらなかったという事でしょう。
では何を拠り所としてエジプトは、国家を民を統制していたのか。手掛かりは、彼らの死生観にあるように思います。
エジプト人は、異様と思えるほど死後の世界に拘った民です。
彼らは、ヒトは死後、神の前で、その生きて来た道について裁きを受ける、と考えていました。その時の神との模範問答集が「死者の書」です。つまりエジプト人にとって「道義感・道徳観」は先天的なもので、守らなければ死後、神によって罰せられるものだったのです。これがエジプト人が、無用に精緻な法体系を必要としなかった理由であると僕は考えます。
倫理や約束事は、わざわざ明文化しなくても、人々はごく普通に守ったに違いありません。

この「道義感・道徳観」について。エジプト人は"マアトMa'at"という言葉を使っています。マアトは頭上にダチョウの羽を載せた女神として描かれますが、むしろもっと抽象的な意味でエジプト人は使用していました。太陽神ラーについて語るときも「神は混沌の代わりにマアトを置いた」と云います。つまりマアトをヒトは奉ろうわけですが、神もまたマアトのもとにあるとする。神さえも超えた理法としたわけです。「死者の書」の中にもマアトという言葉が、女神マアトとは別に何度も現れてきます。
そう考えてみると。
もしかすると。このマアトMa'atという言葉には「道義感・道徳観」というより"天理"という日本語を与える方が良いのかもしれません。
すなわち「人の上に神あり、神の上に天あり」という構造です。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました