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LAST FRIGHT OF SAIGON#11/迫りくる共産軍

"防共"という綺麗事と、武器の"在庫整理"という我欲が絡まってのベトナム内乱への参与は、結果としてドルの兌換性を揺るがすまでの戦費の濫費へ、アメリカを追い込んでしまった。ニクソンはドルの金への交換を拒否。アメリカの経済を守った。だからと云って樽の底に開いた穴(ベトナム)を塞がなければ、早晩破綻に陥るのは目に見えていた。
そのオイエの事情をソ連/共産党側は正鵠に把握していた。
ベトナムからアメリカ軍の撤収が始まると、すぐさまソ連/VLP(ベトナム共産党)はチョンソン山脈東部に戦略道路設営を開始した。戦略道路なしでは南への侵攻はできない。アメリカはこの設営工事を黙認した。空爆を仕掛けなかった。この戦略道路を使って、合同機動兵団(歩兵三個師団/戦車/装甲車/ミサイル/長距離砲/高射砲など)がMDZ(非武装地帯)に集結したのが75年の初めだった。

北側、バン・ティエン・ズン人民軍総参謀長の回顧録に「第一軍団は北ベトナムのニンピン省に待機し、第二軍団は第304、324、325の三師団と各種技術兵種部隊で構成され、南ベトナム北部に進行。そこでサイゴン政府軍第一軍団とむかいあった」とある。そして「主力正規軍四個師団が中部高原に進行。サイゴンの北から北西にかけて第6、第7、第341を主力とする第四軍団が配置」1月6日にはフォックビン市を陥落させ、フォタロン省(現在のソンペ省の一部)全体を北のものにした。南ベトナムにある省ひとつ全体を陥落させたのは、この時が初めだった。アメリカはこれを黙認した。

続いて1975年3月1日、中部高原バンメトートで総攻撃が開始。ダクラタ省の省都バンメトートは人口15万人、南側政府軍の第二三師団司令部がおかれている。タイグェンの政府軍防衛の要だった街だ。北側はこの総攻撃にチョンソン山脈東部に作られた戦略道路を利用して持ち込まれた大量の新型戦車と長距離砲を総動員した。そして死闘の末、バンメトートは北の手に落ちた。南ベトナム政府軍は、この敗戦でダクラタ省地方軍の指揮系統と第二三師団司令部のふたつの中枢を失った。

しかし雨季が近づいていた。雨季は近代兵器を駆使するアメリカ軍と戦うNLF(ベトコン)に強く味方するものだったが、今度は立場が逆転する。
前掲バン・ティエン・ズン人民軍総参謀長の回顧録にこうある。
「現在の問題は、すばやく展開し、敵に立ち直りの時間をあたえず、天候に邪魔をさせないことであった。こうして敵との、そして天候との競争が、三月一二日朝からはじまったのである」
この北からの大攻勢について3月13日、アメリカ側シュレジンジャー国防長官は「今年の乾季で政府軍が決定的な敗北を喫することはない、と予測している。七六年が大攻勢の年となろう」というコメントを出した。しかしその時には、既にフエ市には地下工作部隊が送り込まれていた。重要戦略部は徹底的なテロによる破壊が行われていたのである。「絶対に何かある」と人々は思っていたに違いない。アメリカはその異変も見て見ぬふりをした。

3月19日、VLPコンサンは南側のミーチャイン川防衛線を攻撃、22日に突破してフエに突入した。25日、南ベトナム政府軍は敗走。26日、フエ、トアティエン省(現在のピンチティエン省の南部は北側に掌握された。
そしてサイゴンの喉元であるダナン市だ。ダナンでは大きな衝突は起きなかった。この時点で南ベトナム政府軍は殆ど機能不全に陥っていたのである。3月29日、VLPコンサンの第二軍団歩兵と戦車が、第五軍区武装部隊と共にダナン市をいとも簡単に占拠。続いて4月1日から3日にクイニヨン、卜ゥイホア、ニャチャン、カムラインを占拠した。
そして4月9日、サイゴン東方のスアンロクへ侵攻した。これが終幕に向かう最終章になった。南ベトナム政府軍は残る兵力の全て、すなわち第一八師団、第五師団、第三騎兵旅団、第一空挺旅団、残っている砲兵大隊、連合大隊を此処へ投入した。これが南北の最後の大きな戦いになった。
4月20日、南ベトナム政府軍は大敗し、これによってサイゴン侵攻の突破口が開かれたのである。
これらの一覧の侵攻作戦はホー・チ・ミン作戦と名付けられている。これがサイゴン市がホーチミン市に変わるの大きな理由になったのである。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました