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東京島嶼まぼろし散歩#17/伊豆国02

「その『国造本紀』に「神功皇后の御代,物部連の祖,天桙命8世の孫,若建命を国造に定め賜う。難波朝(孝徳)の御世,駿河国に隷く」とある。これが"伊豆"という言葉の初出だ。
伊豆は湯出だという説がある」
「あ・湯出(ゆず)ね。なんとなくわかる」
「少し後になる『扶桑略記』には、天武天皇9年(680)7月駿河国から田方郡と賀茂郡を分割して伊豆国とある。・・こう考えると、おそらくヤマトタケル東征の頃には既に伊豆国はクニとしてあったに違いないな」
゛でもわざわざ山道をヤマトタケル軍は通ったの?」
「あの辺りのクニは賀茂郡だ。日詰遺跡がある。弥生時代後期から平安時代にかけての大集落跡だ。おそらく小さいながらクニとして自律していたんだろうな。ヤマトタケルは衝突を避けてもっと北ルートをとったんだと思うよ。
実は、伊豆は前方後円墳や前方後方墳が極端に少ないんだ。もし中央政権がらみが入り込んでいるんだったら・・波多国造/都佐国造/島津国造/久比岐国造/洲羽国造のように大型の古墳があるはずなんだよ。伊豆にはそれがない。いずれにせよヤマト王朝の支配下にはいるんだが、そのとき伊豆国府は三島に置かれている。国分寺も三島だ。半島内ではない」
「あれ?伊豆諸島じゃなくて、こんどは伊豆半島の話なの?」
「いやヤマト中央政権から見た伊豆という話がしたいんだ。中央にとって大島も三宅島も神津島も伊豆の向こうにある島々だ。伊豆という勢力図の一部だったんだよ。」
「なるほどね、だから伊豆半島に伊豆諸島ね」
「駿河伊豆地域は、珠流河国造の管理下に有った。珠流河国造には「駿河評」「富士評」「田方評」「賀茂評」などいくつかの評が建てられていた。伊豆国造は、「賀茂許」の評造として株流河国造の下にあったんだろうな。」
「なに?評って??いっぱい知らない言葉が出てくるわ」
「律令前の行政の区域を評というふうに言った。評は後に郡になる。その評にに中央から宰(ミコトモチ)が派遣されたんだ。宰(ミコトモチ)というのは地方官だ。伊豆国として珠流河から分立したのは天武九年(680)という史料が残っている。ここで考えるべきは珠流河国造から「賀茂評」が伊豆国造が自立したかだな」
「どうして?」
「駿河の中でも際立って山深い所だった。おそらく民族的にも別種だったのかもしれない。きっとスンダランドからやって来た古アジア人の血が濃かった・・隼人の民の地だったのかもしれない。駿河は非スンダ系の弥生人が中心のクニだ」
「伊豆半島は山深いから稲作があまり浸透しなかったのかしら。だから縄文人たちが根深く残ったのかしら?」
「そうかもしれないな・・それと三嶋神祭な。賀茂は富士山を祀る山祇の中心地だったんだよ。ちなみに三嶋神主家の矢田部氏は物部系だった。伊豆という言葉を初出した先代旧事本記は物部氏によってまとめられた書だ」
「あ・なるほどね」
「令期の伊豆半島は、棲む人も違う文化も違う・・宗教的にもちがう・・ある意味"辺境の地"だったんだろうな。それが、中央政府が伊豆国を流刑先にした理由だろう。遠流の地とされたのは天平六年(734)からだ。平安時代、たくさんの貴族が伊豆国に流されているよ。
有名なのは『承和の変』だ。842年だ。藤原氏が仕掛けた天皇乗っ取りに参与したということで橘逸勢が伊豆国へ流刑にされている。『続日本後紀』承和9年7月28日条にこうある。
『罪人橘逸勢 除本姓 賜非人姓 流於伊豆国 伴健岑流於隠岐国』
橘逸勢はド天才でね、空海と共に遣唐使として唐まで行った人だ。彼は本姓身分を剥奪されて非人として追われたんだ。・・それと『応天門の変』866年だ。大納言伴善男が伊豆国へ流刑された。平安中期になると『保元の乱』1156年。源為朝だ。彼はさらに遠島の伊豆大島に島流しになった。『平治の乱』1159年。源頼朝が伊豆国に流されている」
「そんなに沢山の偉い人を送り込んだら・・現地で別の一大勢力が出来ちゃうんじゃないの?」
「ははは。そりゃいいとこを突く。源頼朝の巻返しは正にそれだな。」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました