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小説特殊慰安施設協会#21/9月8日東京無血開城

9月8日。連合軍の入城が始まった。先ず多数のジープが、先遣隊として連合軍が通る道の確認を行った。夜明け前の東京は静かだった。8月30日、まだ武装解除さえ行われていない日本の地を踏んだとき、彼らは緊張しきっていた。南太平洋で、投降せずに死ぬまで戦った兵士たちの故郷である。沖縄でも沢山の民間人が、女子供までもが、捕虜になるより自決を選んだ国民の本拠地である。しかし敗戦が決まると、拍子抜けするほど、すべての日本人が何の抵抗もなく進駐を受け入れた。誰も抵抗しない。何の抵抗もない。米兵たちは不思議でならなかった。太平洋の血みどろの戦いの中で、この極東の地の黄色い連中は、自らの命も顧みず戦いを挑んできたのに。あの連中は何処へ行ったのか?何者だったのか?本当に日本人という同じ民族だったのか?

しかし進駐して一週間あまり経つと、その不可解な”東洋の神秘”にも慣れ、この日、深夜の東京へ散った先遣隊のジープに乗った兵士たちも、緊張はしていたが、なにかの衝突が起きるかもしれないとは考えていなかった。

 原町田に駐屯していた米軍第一部隊が、午前六時にトラック・ジープなどで出発。根岸・府中・調布を抜けて日比谷帝国ホテルの前に集結。それから米国大使館前へ600名が列を組んで行進した。その様子を立ち止まって見る人はいたが、人数は多くなかった。ましてや米国旗を振って進駐軍を迎える人々の姿などは皆無だった。

しかし。連合軍からも日本側からも、それを仕掛ける話が出なかったのはどうしてだろう。何れの国でも、解放者としての進駐軍の行進は、道路を埋め尽くす歓迎の群集によって演出されるもの、なのだが。

別部隊1450名が、午前六時半ごろトラック・ジープで明治神宮の裏手広場代々木練兵場に到着、ここに幕舎を設営した。この設営した幕舎には、翌日9日と10日、列車を利用して原町田から次々と兵士たちが集結している。同じく別部隊150名が10時過ぎに帝国ホテルへ到着している。

マッカーサーは、幕僚と共にアメリカ大使館へ午前11時半に到着した。そして入所式を開いた後、そのまま横浜に戻っている。しかしこの日から、銀座・丸の内は米兵が闊歩する街になった。

その連合軍の一部が第一京浜を通る。そして大森海岸で小休止する。その際、R.A.A.の女子特別挺身隊が飲み物と軽食を出すことになっている。このアイデアを出したのは、おそらく終戦連絡局だったろう。林譲は、高乗課長からその話を聞いたとき、警視庁保安課にそんなことを決める権限がある訳がないと思った。たしかにR.A.A.の女たちが連合軍兵士へ、にこやかに飲み物を振舞えば、敵対する意思がないことは演出される。自国の女たちを征服者に供することは、古来から続く恭順の証だからな・・林穣は思った。

「しかし、そんな大事な役を仰せつかっても、彼女たちには装うモノがありません。家を焼き出され、家族を失って、着のみ着のままで、ウチへ飛び込んだ来た人たちばかりです。お持て成し役をさせていただくなら、そのための着るモノも、靴も飾り物も必要です。」

 横浜税関ビルの廊下で、高乗保安課長からその旨指示されたとき、林穣は冷静にそう言った。高乗保安部長は小さく頷いた。

当日。大森海岸の道路沿いには長テーブルが並び、その上に飲み物や軽食が置かれた。娼妓たちは、何日か前にトラックで大量に届けられた着物と帯で、日本人形のように着飾り、米兵を迎えた。

そんなサプライズを知らされていなかった兵士たちは、大喜びの歓声を上げた。予想した通りの大盛況だった。その女たちの嬌声の中に林穣がいた。通訳をかって出て、最前列にいたのだ。林穣も満面の笑みを浮かべながら対応していた。何日か前に米兵に足蹴にされたことなど、噯にも見せていない。林穣と一緒に高松部長も、汗だらけになって長テーブルの前に立って、兵士たちに食べ物と飲み物を手渡していた。その人だかりを、保安課から派遣された数名の警官が警備している。その中に背広姿の男が一人混ざっていることに、林穣は気がついていた。

 内務省の人間だろう。彼らが知りたいのはR.A.A.の動静だ。自分たちか考えだし、世に放った民間組織が、どう動いているか、観察しに来たのだ。内務省はR.A.A.の活動を放置しいるわけではない。林穣はそう思って心を引き締めた。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました