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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#06

3月3日。マニラは落ちていた。もちろん日本国民はなにも知らされていなかった。
米軍のマニラ攻撃は2月3日である。兵糧戦の末の攻防である。日本軍と日本人民間人は北へ敗走した。この敗走により日本は制空権制海権の大半を失った。壊滅状態にあった日本経済は、これによってほぼ完全に物理的戦争遂行能力を失ったのである。
石油備蓄も殆ど無くなった。この年の1月の段階で国内備蓄は49万バレルを切っていたのにもかかわらず、2月からは一滴たりとも輸入が出来なくなってしまったのだ。もちろんそんな話は、何も国民の耳には届いていなかった。
日本は周辺4海すべてを海上閉鎖され、往来する日本船舶は民間だろうが何だろうが片っ端に沈められた。農業の主体を台湾と朝鮮半島へ移し、国内の工業化を図るという明治以来の政策が裏目に出たのである。列島内で自給自足が出来なければ飢えるしかない。米国は日本を国ごと兵糧攻めに追い込んだわけである。
マニラから命からがら日本へ逃げ帰った作家・今日出海が、その惨状を参謀本部へ届けると、すぐさま憲兵に逮捕、緘口令を敷かれた(昭和史の天皇13)と書いている。

そして3月6日。国民勤労動員令が発令された。
これは本土決戦に備えて、国民が一丸となって米英鬼畜と戦うための法整備だった。「国民皆働」「総員勤労配置」を目指した。学業は無用とし、文科系の大学および高等専門学校はすべて閉鎖。病床に就く者も「国民皆兵」として、本土へ上陸してくるであろう米英と戦う民兵とす。・・そのための法整備である。

負け戦になった時、支配者が叫ぶことはいつも同じだ。「民よ、吾と共に戦え。我らは正義なり。我ら正義の許に死なん」と。
・・少なくとも・・少なくとも原則は・・非戦闘員である民に兵は銃を向けない。しかし武装すれば・・別だ。民兵となった民は、堂々と殺戮の対象にし得る。負け戦になると・・支配者は必ず非戦闘員であるべき民を盾にする。最も恥ずべきことだ。
きれいな話をするセールスマンは、必ず無用なあるいは危険なものを、あなたに売りつけようとするものだということ・・忘れないで。

その3月6日の手記に石川はこう書いた。
「3月6日 火曜日 雨後曇
午後7時35分帰宅。連日の敢闘で些か参ってきたが、なんのこれしきの事で弱音を吐いては前線の将兵に対して申し訳ない。然し深夜まで原稿を書き、昼間はカメラを肩に災害地撮影行脚、夕方からは暗室に入って大量の写真作製に大童。火の気の全然ない暗室で手の切れるような痛い水に手をつけて、寒さに慄えながらの仕事の連続だ。
こんな状態がいったいいつまで続くのかしらないが、やらねばならないのだ。少し位の疲労、風邪気味、微熱なんかいつの間にかふっとんでしまっている。自分ながら病気しないのが不思議に思われてくる。
東京の空襲被害状況写真は、東京では私一人しか撮っていないのだ。状況写真は誰にも撮らさないのだ。軍部の厳命で報道関係者といえども写させないのだ。それを敢えて総監命で撮影していく私は、その使命に生命を投げ出して精根を打ちこまねばならない。そしてその状況をこくめいにキャッチして、東京はこのようにして1日1日と焼き払われ焼野原になっていった、そしてその中にあって吾々警察官は斯様に活躍し、都民はかく戦ったという、貴重な記録を永久に残す大きな仕事を担当していると思えばくじけてはならないのだ。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました