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夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩6-03/ディジョン#03

https://www.youtube.com/watch?v=EROpmQHQMCM

朝食はホテルのメイン・ラウンジへ行くことになる。ゆっくり起きた朝だった。まぁ、ンじゃメイン・ラウンジへ行くかと通りに出たが・・目の前にあるMadeleine Café(8 Rue Verrerie, 21000 Dijon)がオープンしていた。朝9時半からとのこと。

https://madeleinecafe.fr/
それを見たらメイン・ラウンジまで200m歩く気がしなくなった。・・入ってみると、グラノーラの朝だった。ん~なかなか宜しい。コーヒーも合格だった。
「いいわね。これも」と嫁さんが言った。
「午前中はデジョンのマーケットを歩いてみようか」
「ん~それもいいわね」
マーケット/中央市場はノートルダム・ド・ディジョン教会Église Notre-Dame de Dijonからそんなに遠くない。僕らは店を出てからシュエット通りRue de la Chouette Bisを真っ直ぐと歩いた。ディジョンのフクロウLa Chouette de Dijonの横を抜けてカンタン通りRue Quentinに入れば目の前にある。
Halles centrales et marché central(Halle central de, 21000 Dijon)
https://www.dijon.fr/Dijon-au-quotidien/Commerce-artisanat/Marches-hebdomadaires

インドアの市場は中々圧巻だ。1870年代に建造された施設で、150年は経っているが老朽感はない。日々の生活にしっかり生きているところが凄い。
「たしか午前中だけよね」
「生鮮類はな」
何回か来ているので勝手は付いてるようだ。幾つかホテルで食べるものを買ってから、カフェで白ワインを呑んだ。
人は多い。観光客もたくさん混じっていた。市場で売っているモノもその場で食べられる。地元の人に食材を提供することが大きな目的なんだろうけど、こうした観光客相手の小売りが、おそらく大きな収入源になっているに違いない。牡蠣を扱っている魚屋が店の横にテーブルを置いて、その場で食べられるようにしていたり、精肉店やチーズ店も小さく商品を小分けして売っており、それをカフェへ持ち込み、ワインを呑みながら食べている人が多くいた。僕らもカフェで嫁さんが買ったサラミを開けて食べた。

「街の真ん中にこんな大きい市場になるような広場があるということは・・やっぱりここも修道院の跡なの?」と嫁さん。
「うん、そうだ。ドミニコ会Dominican Orderの教会が有った。説教者兄弟修道会Ordo Fratrum Praedicatorumと言う。彼らは托鉢してキリスト教を布教する人々だ。修道士のように自分たちで集まって閉鎖した空間で求道はしない。人々の中に混ざり、異教を糺しキリストの福音を伝える人々だ。だから修道士ではない。ドミニコ会士だ。大きな流れとして。フランシスコ会とドミニコ会という会派が有った。のちにカルメル会/アウグスチヌス隠修士会/聖母下僕会という会派もできた。」
「あ、いまの教会みたいだった訳ね、誰でも自由に出入りが出来るところだったのね。その人たちの教会が有ったの?」
「うん。でも1789年7月14日フランス革命だよ」
「ああ、そうね、いつものフランス革命ね」
「うん。此処に有ったドミニコ会の教会は、狂乱する革命に扇動された人々に焼き払われたんだ。托鉢修道会だからね、修道院のような石造の堅牢な建物じゃなかったと僕は思うな」
「托鉢僧は沢山殺されたんでょうね」
「記録はない。でもそうだ。まちがいなく。そしてその焼け跡地に色々な人が棲み始めた。九龍城寨みたいになったんだよ。鋳物の作業場が出来たりしてね。それが100年も放置状態だった。・・ところがナポレオン三世がフランス第二帝政の皇帝(1852-1870)になると、彼がパリを世界最高の産業都市にするために大改造を始めるんだ」
「ウージェーヌ=オスマンGeorges-Eugène Haussmannね。パリで何度も何度も聞かされた話だわ」
「うん。オスマニザシオンHaussmannisationだ。オスマンは間に大きなパリ博を挟んで1853年から1870年まで17年間パリの大改造をおこなった。いま僕らが見ているパリは大半が彼の作り上げたパリだ」
「ここもオスマンが手掛けたの?」
「いや。彼が直接手掛けたわけではない。でも彼のオスマニザシオンという計画が、他のフランス各都市にも強烈なインパクトを与えた。 このHalles centrales et marché centralが計画されたのは1873年だ。1875年に完成している。
実は此処だけじゃない。ディジョンにあるオスマン様式の建物は、すべてこの時のものだ」
「オスマン様式って、パリ改造計画の基本様式でしょ?何度もパリで見せられたからよく憶えているわ。あ~なるほどね。ディジョンの建物ってすごく既視感があるけど・・そのせいなのね」

「そうだ。ディジョンは小パリだ」
オスマン様式の建物は原則五階建てになる。大抵は1ブロックすべてを覆う大きさとして設計されている。鋳鉄のバルコニーと精緻な装飾が施された外装で、各階の天井は高い。そして五階にはバルコニーが ある。それとドーマー窓をもった屋根裏部屋とマンサード屋根が特徴だ。
「あのパリ大改造の基本思想がその時、ディジョンに取り込まれたんだ。・・いま僕らが見ているディジョンの主要な建物は、そのときオスマン様式を取り込んだディジョンなんだよ」
「やっぱりナポレオン三世って、すごい影響力をフランスに残した人だったのね」
「ん。熱狂され皇帝となり、最後は鞭打たれ放擲されたヒーローだ。典型的な現代のヒーローの顛末だ。ナポレオン三世は見栄えも小男で、粘液質で嫌われ者だった。だからパリには彼の名前が付いた記念碑はなにもない。あるのはルーブル美術館の二階にある執務室だけだ」
「なるほどねぇ~ところで一度帰りたいわ。色々買い過ぎた」嫁さんが横に置いた持参のエコバッグを見た。
「そだな。昼してからArchaeological Museum of Dijonへ行きたい」
「はぁい」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました