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新川酒飲み散歩#01

5年越しの腰の痛みを勝手にデブなための股関節痛だと思ってた。勝鬨から銀座まで歩くと痛くなったんだけどね、それがだんだん痛くなるまでの距離が短くなって、こりゃいかんなぁと思って腰痛クリニックへ行った。そしたら脊柱管狭窄というお札を頂いた。ついでに「先ずはこいつから」ということでブロック注射までされちまった。
ま、でも変わらんな。歩くと痛い。歩くと痛いと散歩が出来ない。こいつは困る。もうちっと、近所を歩きたいからなぁ。
こうなりゃ、最後の手段・・・やせるきゃないなぁ、と思った。

で。散歩。金魚のフン付きで。・・フンのほうがエラそうにしてるけど。
昨日のブラックフライデーのあと片付けをしてから店を出た。15:00は回ってた。ちょっとパラついてたけど傘は持たない。
新大橋通りを日本橋の方へ歩いた。それで明正通りを右に曲がった。新亀島橋を渡ると新川だ。実はそのちょいと先に好きな本屋がある。今日の散歩の目的地はそこだ。・・やってなかった。
やってないとなると・・んんん。土曜日だからね。この辺りは会社ばかりだから店舗という店舗はみんな閉まっちまってる。さあ困った。行くとこない。でもまあ、もう少し先に、こいつも僕が好きな今田商店/酒店が有るから寄ってみることにした。まさか、あスこまでやってないこたないだろう、新川と云えば酒の町だからなぁ、そう思いながらもうちっと歩いてみた。・・やってた。
「なんでこんなところの酒屋さんまで知ってるの?」と嫁さんが不振がってた。
「おまえ、新川は酒の町だぞ。新川を知らないで酒飲んでたら、後で閻魔さまに怒鳴り散らかされるぞ。そんなやつは血の池針の山3泊4日コースだぁ!って」
「へぇ、新川ってお酒のまちなんだぁ?どうして?」店内の酒のコレクションを見ながら嫁さんが言った。
どうして?しめしめ(笑)

「家康さんが一族郎党引き連れて、江戸湊へ引っ越ししてきたときにな、ついでに酒飲みもいっぱい連れてきたんだ」
「へぇ、それまで江戸には酒飲みはいなかったの?」
「んん~いたけどな。まあ聞け、関東の山家のサルや漁師が飲んでたのはドブロクだ。ここで云う酒ってぇのは和酒のことだ。独自の製法で醸造された清酒のことで、発祥は奈良あたりだ。昔は酒蔵や酒屋の軒にデカい杉玉がブル下がってたろ」
「しらない」
「んんん、ぶらさがってたんだ。あれは新酒が入りましたよぉってお知らせだった。大神神社ってぇのが奈良県桜井市にある。土地の蔵元が醸造安全祈願のために、三輪山の聖なる杉を玉にして奉納したのがはじまりだ。いまでも酒まつりが11月14日に毎年やってる。清酒のことだ。
だから清酒は全部made in 関西だったんだ。まともな酒は関西にしかなかった。だから家康さんとそのご一統は、酒を関西から遥々運んできてたんだ。ドブロクなんぞ呑むのは馬子人足だけ・・ってわけだ」
「焼酎は?」
「また余計なこと聞くな。焼酎は蒸留酒だ。今話してるのは醸造酒のことだ。蒸留酒の話をするとなるともっと後代のことになる。いまは、なぜ新川が酒の町かという話・・」
「はいはい」と流された。

今田商店は角打ちをやってる。若い子たちが何人か長いカウンターの所に並んで飲んでいた。つまみは店の脇にある缶詰と袋詰めの乾物。本寸法の角打ちだ。
その角打ちを横目に見ながら話を続けた。
「江戸初期の豪商と云えば鴻池なんだが、鴻池新右衛門が残した文書によると最初は陸路で馬に載せて運んだらしい。1619年(元和五年)とある。陸路だったからな、当時は一樽を"片馬"といったと云う記録が残っている」
「あ。馬の左右に振り分けて二樽ね、だから一樽だと片馬」
「そうだ。最初に江戸へ馬に載せて酒を運んだのは鴻池の勝庵だ。彼は大名屋敷を廻って一升三百文ずつで売ったんだ。ところが記録によると勝庵は仕入れと運送費は、馬一頭あたりで三百五十文だったとある。馬一頭で運べるのは四斗だから大儲けだな。薬九層倍どころじゃない」
「すごいわね」
「でもな、荷馬じゃ所詮は数知れてる。しかし未だ海上輸送はムリだった。それほどの船を関西から紀伊半島をまわって陸伝いに進むとしてもリスクが高すぎたんだ。海路は有った。しかし遠路海運に耐える大型船はなかったんだ。」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました