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深川佐賀町貸し蔵散歩#05

江戸資料館を出た後、清澄通りを仲町に向かって歩いた。仙台掘川を渡って少し行くと千疋屋の配送センターがある。そこのファクトリー・ショップへ寄った。嫁さんが「清澄お土産よ」とか言って焼き菓子を買ってた。以前は同じ清澄通り沿い勝どきに文明堂の工場が有って、ここのファクトリーショップでも「勝どきお土産よ」とか言って、カステラの耳を買ってたことを思い出した。松崎煎餅も文明堂も今はもうない・・
亀掘公園に向かって歩いていたらホームセンターがあった。「コーナン・ホームセンター」である。びっくりした。僕が知ってる佐賀町には無かった。「あらあら」吸い寄せられるように嫁さんが入って行っちゃった・・あのう、今日は買い物目的じゃないんですが・・
キンギョのンコの、ンコになって僕も付いていくしかなかった。
でも、ま・・錦糸町の魚寅が鮮魚で入っていて、あスこの名物「マグロのブツ」も置いてあったから、それなりに収穫はあったが、以降の佐賀町散歩がデッかいスーパーの買い物袋をブル下げてになっちゃったのは余計な落ちだったけど・・


さて・・話の続き。隅田川河口の干拓を願い出た8名だが
「猟師町之儀、寛永六巳年、汐除堤之外干潟之処、町場二取立申度旨、治郎兵衛・藤右衛門・新兵衛理左衛・彦左衛門・助右衛門・助十郎・弥兵衛、八人之者」とある。しかし実は、このとき既に熊井町と相川町は有った。
徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸開府したのは1603年(慶長8年)。『寛永録』の「猟師町之儀、寛永六巳年」は1629年である。開府26年後である。家康は江戸開府にあたって、旧領東海諸国から多数の人々を伴っている。そして江戸城城下の開墾と商業地の設営をさせた。
このとき最優先だったのは、彼と共に江戸湊へ渡ってきた人々の「食」の確保だったはずだ。つまり江戸湊での漁撈は最重要課題のひとつだった。そのために家康は、隅田川河口に熊井と相川という二つの漁師村を置いた。おそらく漁師は佃島と同じく摂津の人々だったに違いない。
摂津の漁師たちは、家康と共に多数江戸湊へ移住している。そして彼らは隅田川から品川にかけて広がった。

前述相川家・家伝『寛永録』をもう少し読み込んでみると「引付衆」という役職が出てくる・・たとえば「引付衆」大和田町の九郎右衛門だが、彼は開発発起人の吉右衛門が自分の出身地である大和田村から呼び寄せたとある。大和田村は大阪湾に面した漁師村だ。摂津国だ。
同じく今津屋の「引付衆」弥右衛門と源兵衛は「右両人の深河五丁目今津屋善右衛門殿御入被成候」とある。この「今津」は摂津国武庫郡今津村のことである。今津村も同じく大阪湾に面した漁師村だ。
彼らは間違いなく漁師だろう。その彼らを呼び寄せたきっかけは、家康を慕って先んじて江戸に入っていた摂津の漁師たちではないか?僕はそんな風に思ってしまう。

さて、この先んじて作られていた相川町だが。『寛永録』には家系図が二巻ある。これによると
「佐国土佐郡相川郡士二代将軍台徳院殿御宇、酒井雅楽頭忠世公附従、関東下大川吐口汐除堤潟之所、長四百間余、巾百五拾心外七人新聞之儀相川新兵衛上聞、町場取立、新兵衛町、町銘唱、名主役勤之」とある。
新兵衛は「土佐国土佐郡相川庄郡士」と書かれているところから、彼が土佐出身で相川庄郡士であることがわかる。
同時に家系図に「紋所五七桐菊丸之内一用之、馬印桐旗は白二引桐菊丸一用之」とあるから、おそらく新兵衛は武士だったのではないか?
とすると、彼が漁師だったとは考えにくい。
おそらく摂津から渡ってきた漁師たちの管理者統率者として、徳川幕府から割り当てられた・・と考えるのが妥当ではないか?

そしてもうひとつの熊井町の名主理左衛門。彼については『町方書上』1828年(文政11年)にこうある。
「当町 名主 理左衛門右先祖之儀、旧記は天明六午年中類火之節焼失いたし、相訳り不申候得共、本家之義は往古より紀伊国住居致候由、本家苗字熊井と申名前は相訳り不申候得共、 紀州家江仕候由、私より六代以前理左衛門義は其節本家之次男而御当地江罷出、本家之家名を名乗、 酒井雅楽頭様御屋鋪内罷在候得共、御家来ニは無之、寛永六巳年当町開発いたし、名主役相勤候処、実子無之候二付、 国許本家之実甥引取、 養子相続人いたし、則二代目理左衛門二而、 同人義国許実家之弟名前不知呼寄、同居為致置候処、右之者、西御丸表御坊主ニ被召出、子孫当時熊井宗甫と申、相勤罷在候旨、先々より申伝候得共、祖々父之代より国元通路不致、当時本家相続人之有無相訳り兼申候」とある。
理左衛門は紀伊徳川家に仕えていた武家だ。二代目理左衛門の弟は、西丸坊主として江戸城に努めている。彼もまた酒井忠世の屋敷に逗留したという記述が残っているので、おそらく酒井忠世の指示によって開発に赴いたと考えられる。臣下でないが酒井忠世とは何らかの関係があったのではないか?

おそらく熊井町の理左衛門もまた、摂津から渡ってきた漁師たちの管理者統率者として、徳川幕府から割り当てられた人ではないか・・と僕は思う。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました