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旧約聖書はだれが書いたか#08/単性生殖(処女懐胎)ならイエスが男性なはずはないでおわりたい

蛇は農神である。農耕と豊穣を司る神だ。メソポタミアの中にもフェニキアの中にも蛇は登場するが、すべて地祇に結びつく繁栄の象徴である。そして原則的に女神に関わる。
"J"が語る、メソポタミアの神話世界の中に作られた「エデンの園」だが、異神の影が色濃く残る"蛇"がいることに、何ら不自然さはない。なおかつ「生命の木と知恵の木」というメソポタミアの神話を源流とするモノについて、蛇がその存在と意味を知っていたとしても、なんの不思議さはない。それらは全てメソポタミアの神体系のものだ。

実は、蛇はエバに「その実を食べよ」とは言っていない。神がアダムとエバに「食べると死ぬ」と諭した話が、嘘なことを教えただけだ(なんと!神が嘘をついたのだ)エバは蛇の話を聞いて「それならば」と自発的にその実を食べ、傍にいたアダムにも何も考えず手渡した。そして2人は目覚めた。...
それを知った後の神の行動は、そのまま真っ直ぐに読むと、とても奇妙に思える。神は、禁を破った2人に「エデンの園」からの自立を命じ、エバには出産の苦しみを与え、アダムには労働の苦しみを与える。なんと・・簡単な。僕は、神の命令を破った2人への、その罰の軽さは呆然となる。出産の重軽は人によって大きく異なる。労働は苦もあるが達成感の喜びは何よりも大きい。それが神が示した重大な禁を破ったことについての「罪」なのか??
しかし蛇には違う。蛇に神が投げる呪いは壮絶だ。そしてその呪いは「お前のせいで」と、"地"にも向けられる。
聖書中、この蛇に対しての神の怒りは、最も強い怒りだ。これほどに怒る神は、どこにも出てこない。

斯くの如く、禁を破った二人と、禁を破るきっかけを与えた蛇への処遇の格差は驚くほどである。
なぜか?僕は、そこに旧神としての蛇を見つめてしまう。
ヒトは、旧神が属する"地"をもって、神が息吹きを吹き込んで産みだしたものだ。人は出自から「聖獣(神性・地祇性)」を併せ持っている。"地"を母として、"神"を父として産みだされたものだ。神"だけ"のものではない。その「母なる地祇」に神は怒り、呪いの言葉を投げかけるのである。
なぜ"J"は、そこまで地祇を責める神を描いたのか?

ここで少しフォーカスを大きく引いてみよう。
紀元前1500年から500年にかけて、神々の主権は女神から男神に大きく変わる。これはメソポタミアでもギリシャでも同じだ。
農耕神であり豊穣と繁栄のシンボルである女神たちは、バール神を典型とする「荒ぶる神」に制圧されていく。ゼウスが全ての神の上に君臨する姿と同じパラダイムシフトが、夫々の土地で起きた時代である。
その視線で見ると・・"J"が描くへブル人の神の怒りの意味が、はっきりと見えてくる。

サントリーニ島によって壊滅し、暗黒時代へ落とされてしまったカナン人(フェニキア人)の土地で、二代続く俊才によってへブル(ユダヤ人)たちは自らの王国の建立を果たした。彼らの神は、モーゼが遥か西南の地・エジプトから運んだ唯一神である。しかしその性格は、原型である《天理=マアトMa'at=真理の擬神としてのアテン神》より、メソポタミアのバール神に近い形へ変わっている。"J"の描く「我らが神」を見る限り、アモンのような抽象性はなく、より具体的だ。固有の性格をもち喜怒哀楽もある。おそらくだが、へブル人たちは周囲の他民族を併合する過程で「神の在り方」を変えて来たのだろう。僕はそう思う。

同じことをローマを出てガリアの森(欧州大陸)へ広がったキリスト教にも起きている。キリスト教は、先住者たちの地母神信仰を「マリア信仰」という形で吸収合併してしまうという離れ業までやってのけたのだ。へブル人たちが「我らが神」に、より具体的な性格を付与したことはも不思議でも何でもない。

ユダヤ王国で生きる"J"にとって、ユダヤ教と、既に同地に深く根付いていた土着信仰の基底にある「地母神信仰」との対比は、大きな課題だったに違いない。まるでそんなモノはない!という話を紡げば、間違いなく"J"の作る「へブル人の歴史」の説得性は、著しく低下する。どう既存信仰と折り合いをつけるか?それが"J"の最大課題だった。僕にはそう思えて仕方ないのだ。
そういう視線で見ると、"J"が紡いだ南ユダ王国の聖書も、"E"が紡いだ北イスラエル王国の聖書も、そして士師たちが紡いだユダヤ人部族の系譜も、全くストレスなくその構造が把握できる。無理なく、聖書中で紡がれている物語が、なぜそこに織り込まれたのか?その意図がムリなデバイスなく見えてくる。僕はそう思う。

旧約聖書は、何度も消滅しそうになった泡沫民族へブル人たちが、ただ一度得た成功・王国成立の栄光を失わないために作った、民族の歴史書である。泡沫民族故に、物語の大半はオリジンではなく他民族からの剽窃である。「我らの神」さえ、祖形はエジプトのものだ。そのために生まれる不整合性を埋めるために、膨大な才能と時間を使って成立したのが旧約聖書である。

もちろん、そのことが旧約聖書の価値を貶めることではない。むしろ正しくその成立過程を見つめることで、真意と意味が正鵠に伝わってくる。僕はそう思う。いま目の前にある聖書の偉大さと壮大さは、全く損なわれない。先人の深い思索の道筋を、僕らは聖書から打たれるように得る。
ラビに云われたことがある。
「お前が考えることの殆どは、すでに誰かが考えたことだ。答えはすでに誰かが得ている。それを探しなさい。それがトーラとタルムードTalmudがある理由だ。」
そうかもしれない。そうだと思う。

・・最後に、ひとつだけ大きな疑問を投げて、この稿を終わりたい。
へブル人たちは、誰一人として「我は神の姻戚なり」と言わなかった。ただ一人「神の子」を叫んだのは、ナザレの大工の子イエスだった。神の子? OK。だとしよう。ならば問う。なぜイエスは女性ではないのか?
マリアが神によって妊娠したのなら・・単性生殖ならば。Y染色体が混ざる訳はない。ならばイエスは、マリアと同じ「女性」のはずだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました