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塞納河古書巡礼#02/ブキニスト

ブキニストの歴史は旧い。
グーテンベルクが発明したと云われている印刷技術は、ほぼ半世紀あまりかけて産業として確立し、ドイツ/フランス/イギリスなどで、さまざまものが紙の書物として流布されるようになった。1400年代半ばのことである。
それまで書物と云えば羊皮を利用し、手書きで書き写すしかなかったのだが、活版印刷機械/インク/書物用紙の開発によって、大量生産が可能になり価格も猛烈に下がり、書物は教会と王家/大学の専用物ではなくなったのが15世紀だった。ちなみに1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラincunabula(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくこともままある。当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。しかし時代を経ると宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。16世紀は書籍の時代だったのだ。貴族や金持ちたちは、こうした本を装飾品のように集め、壁に並べて飾った。

1578年、「セーヌ川に新しい橋を架けよ」という布令をアンリ3世が出した。閑静にしたのは1607年。ポンヌフPont Neuf「新しい橋」と呼ばれた。現在、パリに残る最古の橋である。
当時、最新の施設だったこともあって、忽ちポンヌフはパリの市民たちが散策する名所になった。となればそんな人々を目当てに行商が出る。そんな行商の中に、手押し車に古書を載せて売る者が現れた。
行商は農夫たちの農閑期の仕事である。荘園制度から開放された農夫たちは、自由に糧を得る手段として行商ができるようになっていた。多くは自前の農作物を売って歩いていたのだが、ある程度金を持っている農民は、装飾品などを仕入れてそれを売って歩いた。そのひとつが古書だったのだ。

当時、書物は金持ちが部屋に飾る最もお洒落な贅沢品だったこともあって、ポンヌフの橋の上に並ぶ露店(手押し車の)は、いつのまにか古書を商う者で占められるようになった。まったく「もんじゃ通り」にさも似たりだ。ソレをお目当てに人々が集うようになれば、通りはソレ一色に染まるものだ。

ブキニストbouquinisteと云うのは「本を売る人」という意味。フランス語で、本はリーブルun livreだが、 古語ではブキャンun bouquinと云う。ブキニストbouquinisteという言葉は此れに拠る。
正式にセーヌ川の欄干に露店を構える彼らのことをブキニストと云うようになったのは19世紀に入ってからのことのようだ。実はパリ革命時代、ナポレオン一世時代にも、ブキニストの手押し車はポンヌフの橋の上にあった。それをすべて撤去させたのは第三帝政時代にパリの大手術を行ったオスマン男爵だった。しかしオスマンはブキニストたちにセーヌ川沿いの欄干に露店を出すことを認めた。1859年である。
場所は、右岸側はポン・マリーPont Marieからルーブル河岸Quai du Louvreまで。左岸側はトゥルネル河岸Quai de la Tournelleからヴォルテール河岸Quai Voltaireと定めた。今でもこのルールは守られている。

それでも当時のブキニストたちは、相変わらず全員手押し車で、夕方になると店を畳んでいた。現在のような常設型になったのは、1891年第三共和制時代からで、形状や使用する色、設置方法など、この時に細かく設定されている。
もちろんこうしたルールは適時変更されているが、基本的に書籍を収納する箱は1人のブキニストあたり4つまで。店舗は長さ2m(要するに占用できる横幅は8m)幅が75cm、高さはセーヌ川側が60cm、道路側が35cmまでと決められている。
出店は、パリ市の許可を取れば誰でもできる。もちろん組合には入らなければならない。出店料はない。課税も無い。しかし1週間のうちに4日以上は店を開けていることが必須条件である。
現在のところブキニストは226名(ユネスコ登録分)、夫々の常設箱に許可ナンバーが振られている。左岸が奇数番号/右岸は偶数番号。番号順列は川下から川上である。

ということは・・箱数は226x4で1000強。ひと箱あたり300入るそうだから、単純計算で30万冊がセーヌ川沿いに並んでいることになる。そう考えてみると、ブキニストの存在はパリと云う街の中で、きわめて象徴的なもののように思えてくる・・のだが。残念ながら、現在のブキニストは観光客相手の雑多なお土産屋化しているのが実態だ。たまにしか売れない本を欄干に並べて、のんびりと客待ちをする親父たちの姿は遠いものになりつつある。・・残念だ。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました