旧約聖書はだれが書いたか#03/バベルの物語01

「バベルの物語」のことを書きたい。旧約(神との旧い約束というキリスト教的言い回し/敗戦を終戦と云うの同じ/売春を援助交際というのと同じ)の中に出てくる小さなエピソードのは品である。

話の礎に置いているのはアンドレ・パロAndré Parrotの書いた三冊の本である。70年代、みすず書房が日本の"知"に大きく貢献していた頃に翻訳されたものだ。パロは、ルーヴル美術館に在籍していたフランス人考古学者である。彼はオリエント世界を発掘し、それを系統だてて理論づけた嚆矢である。多数の論文を残しているが、みすずから出ている翻訳書三冊は彼自身による平易な解説書で、オリエント世界を見つめるのに、現在でもこれ以上の本は無いと云えよう。

パロの著「聖書の考古学p172」に以下の言葉がある。...
「この物語は聖書を通じて一度しか記されていないし、また旧約および新約聖書の人物の一人としてこの物語にふれているものがまったく一人もいないことを指摘しておきたい。この留保はすくなくとも驚くべきことである。」
たしかにパロの云う通り「バベルの物語」は唐突だ。そして短い。幾つかの話の集合体である創世記の中でも「バベルの物語」は際立って短い。①人々が塔を作り②それを見咎めた神が③人々の言葉を複数にする・・という話である。多言語起源譚だが・・子細に無心に読んでみると、この話の不整合性・中途半端なことが気になり始める。
この話を書いたのは、その文体から間違いなく"J"だと云われている。"J"は紀元前950年頃に南ユダ王国に生きた祭司だ。
彼は①精緻に、塔が誰によって・何処でどのように作られたかを描く。文章量としては、この部分が多い。そして②神がこれを見咎める。なぜ神がそれを良くないと考えたかを短い言葉で書く。そして③言葉は乱され、人々は散るという話になる。
塔はどうなったのか? 途中で建造が止まったと書くが、その後は記されていない。"J"の関心は、精緻に描いた塔の建造から、いともあっさりと言語の多様化に移り、話はそこで終わってしまう。それどころか創世記そのものがここで止まってしまうのだ。
あまりにも唐突な物語の終幕だ・・と、僕は思う。まったく大団円の帰着点が「言語の多様化の説明」とは、此処に至る様々なエピソードが何のために積み立てられてきたのか、その理由が判らなくなってしまう。

たしかに「言語」は、ユダヤ人と神の間において、きわめて重要なパーツである。彼らにとって神との間を繋ぐものは「契約」である。人は「言葉」によって神と対話し、言葉によって契約を交わす。この神との関係はかなり特異で、他の宗教の殆どが「神との血縁関係」を教義の中心に置くのに対して、ユダヤ人は「言葉」を置いているのだ。アブラハムもノアも、モーゼさえ決して"神の子"ではない。神に選ばれし者だ。自分に血縁関係があると騒ぎだすのはイエス・キリストまで、誰もいない。

"P"司祭たちの書いた創世記の一番最初の部分にも「はじめにロゴス(日本語は光と訳す)ありき」とある。
アダムは。アブラハムは。ノアは。そしてモーゼは。神に声かけられて、神と会話している。では。。神は何語で話しかけたのか?ヘブライ語なのか?僕は、そう考えてしまう。
キリスト教徒たちは、この僕の疑問について、言葉の違う人々に神が話しかけ、人々は使っている言葉に関係なく全員がその意味を知ったというエピソードを新約の中に置いている。しかしこれは何とも後出しジャンケンに思えてならない。
少なくとも旧約聖書の中には、言語に関する話は、最終章「バベルの物語」に達するまで何もない。
間違いなく違う言語だったであろうエジプト人とノアの会話についてさへ、それには触れていない。
何とも、肌触りの悪いものを感じるのは僕だけだろうか?

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました