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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#47/サン・ドナ・シュル・レルバッス03

https://www.youtube.com/watch?v=wxwUjEa_HuM

バランスTGVへのTAXIはまたムシュkをお願いした。11:30とのこと。チェックアウトは11:00なので、朝食のあと少し村歩きをした。
村の開祖であるサン・ピエール&サン・ポー教会Collégiale Saint-Pierre & Saint-Paul(Mnt de l'Église, 26260 Saint-Donat-sur-l'Herbasse)が近くなので、ここに出てみた。ホテルの玄関の前の通りを入ると行ける。ただ古い城壁がそのまま螺旋状の建物になっているので、辿り着くりにぐるぐる回らないといけない。判りにくい。でもまあ、まんなかに向かって進めば辿り着く。
http://www.monumentum.fr/eglise-collegiale-pa00117048.html
「年に一回、バッハの祭典をやるんで有名なとこなんだ。そのことでこの町の名前は知ってたが、不便なとこだからな、今回みたいなことがないと、いくらバッハ好きでも、そうそう来られない」
「へえ。実は有名なところ・・なのね。ここって」
「ん。東にあるグルノーブルという町が有る。東側にあるヴェルコール山塊の向うだ。アプロブロゲス族の村だった。ローマが攻め落とした後、ブルグランド王国の傘下になって司教座が有った。聖ドナトゥス・デュ・ヴァルが隠棲していた。鉱山都市だった。ここがサラセン人に襲われたのが700年代。時の司教コルブスが聖ドナトゥス・デュ・ヴァルの遺物を持って逃げたのが、ここサン=ドナ・シュル・レルバッスだ。732年だと云われてる」
「大きな町でない限りローマが滅んだあと、形になるわけね」
「ん。ガリア人の集落すべてがローマの管理下に入ったわけではない。とくに中央山塊周辺は農耕には向かないからも、どうしても遊牧ばかりになってしまう。それも難しければ場合は鉱山と塩山に糧を求めるくらいだ。それも地域は限られるわけだから、経済的に村を維持するのが難しかったんだと思う。西ローマが滅んだあと、東から入ってきたゲルマン系の人々が彼らの産業を持ち込むまで、自給自足もままならない土地だった。だからゲルマンの大移動以降に、部落/集落が村化したのかもしれない。」
集落は、左右に大きな モンショレmont Chorel山塊に囲まれている。そのモンショレ山塊が、ヘルバス川l’Herbasseに向かって崩れた土砂で出来た盆地である。したがって火山性の地質である、地味は貧しい。遊牧にしか向かない土地だ。そして山からの丘陵は、ヘルバス川に近づくと南は広大な湿地帯になっていく。まさに自然の要塞だったにちがいない。
司教コルブスがサラセン人に追われて辿り着いたとき、部落はジョヴァンジュー/ジョビンシアクスJovinciacusと呼ばれていた。これを司教コルブスがこれをサン・ドナに変えたんだ。サン・ドナというのは聖ドナトゥス・デュ・ヴァルのことな」
「部落は村になったわけね」
「ん。彼と共にグルノーブルの人々も、ここへ逃げただろうからな。唐突に人は増えただろう。彼らは野菜、ブドウ、果物を植えた。たしかに中新世の砂質土壌だから条件は悪い。サン・ドナは貧しいままの村だったんだ。それでもサラセン人がフランク族に追われて撤収するまで、ほぼ200年間、司教座はサン・ドナに有った」

サン・ピエール&サン・ポー教会は白い石灰質の岩で組まれた教会だった。大きな回廊が有った。朝早かったから、訪問者は誰もいなかった。
僕らはゆっくりと回廊を歩いた。
「サン・ドナがサン=ドナ・シュル・レルバッスになったのは何時からなの?」
「ん。1918年だ。実はサン・ドナという村がピュイ・ドームにもあった。それと混同しないように名称変更されたんだ。それとフランス革命を挟んだからな、建物は19世紀末には荒廃しきっていたそうだ。再建されたのは戦後だ」
https://www.facebook.com/Centre.Musical.International.JSBach/
教会のオルガンの前に立った。
「立派なオルガンね、これも戦後?」
「ん。1950年代に私費で作られたものを1968 年と1971年にドイツのオルガンメーカー シュヴェンケーデンが大改修した。プロデューサーはマリ クレール アランだ」
「あ・ウチでよく聞く人!」
https://cmi-bach.com/
「ん。彼女が亡くなって、もう10年経つな。3つの鍵盤、ペダル ボード、35ストップは彼女の監修だ」
「ふうん。聞いてみたいわ」
「折を見て一度聞きにこよう」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました