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旧約聖書はだれが書いたか#07/エデンの園

「エデンの園」の章を書いたのは"J"だった。その文体から彼だと云われている。最も古い聖書作者である"J"は、ここから話を始めたのだ。後代の祭司たちがこれに天地創造の7日間を加えた。そしてそれがまるで一つの話のように見えるようにするため、文の途中で繋ぐという離れ業までやった。
すなわち

「1:1はじめに神は天と地とを創造された」から始まる第1章すべて。これはバビロン捕囚じだいの祭司たちの創作部分だ。...
そして第2章
「2:1こうして天と地と、その万象とが完成した。 2:2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 2:3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 2:4これが天地創造の由来である。」
そしてそのまま"J"の書いた「主なる神が地と天とを造られた時」を、あたかも一文のように祭司たちは繋いでいる。
そのあとの「2:5地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。 2:6しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 2:7主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」からが"J"の書いた部分である。
それまでして祭司たちは、神に"全知全能"性を付与したかったのである。

"J"にとって、神の"全知全能"性など思いもつかなかったことに違いない。彼の視線は、そこにはない。彼が見つめているのは、へブルの民の出自であり、神とへブルの民の関係である。彼にとって、神を語ることはへブルの民の特異性を語ることだった。メソポタミアの多数の民族の中におけるへブル人のアイデンティティを確立することが、彼が聖書を書いた理由だったと言い切れる。僕はそう思う。
その視点から、一番最初の話としての「エデンの園」を見つめると、この話が古来からあるメソポタミアの神話の集大成であることが良く判る。詳細に書き込まれたエデンの風景は、ギルガメシュや楔形文字に残る神話に書かれているそのものである。流れる川も現実に存在するものであり、生命の木も知恵の木も、メソポタミアの神話に出てくるものをそのまま使用している。極論するならば、アダムが置かれた「エデンの園」は、メソポタミアの神話世界"そのもの"なのである。

神は、そのメソポタミアの神話世界で、塵を集め、我が息吹きを吹き込み、アダムを産みだした。このことは極めて重要な意味を持つ。アダムは、神が何にも依らずに空中から突然出現させた造作物ではない。アダムは、メソポタミアの地祇(塵)と神の息吹きによって産みだされたのである。
だからこそ。だからこそ"J"は、天地と書かずに"地天"と書いたのではないか。その前の部分で祭司たちは当然のように天地と書いている。しかし"J"は敢えて「地と天とを」と書いている。地ありて天ありとした"J"の視線は、間違いなくメソポタミアの地祇を見つめていたと僕には思えてしまう。

"J"は、交易の係留地である南ユダ王国に生きた人である。彼は、世界には無数の国々があり、無数の人々が夫々異なった言葉で話していることを知っていた。その事実から"J"は、言葉が深く夫々の地に深く結びついていることに気づいていただろう。そして"J"は、それぞれの民族が独自の神々を持っていることも、事実として知っていたはずだ。

「民族と神と言語」は、深く夫々の"地"(地祇と云おう)に結びついている。
だからこそ彼は、迷うことなく単一言語で、へブルのための神と人の会話を紡いだのだと僕は考える。そこに異語・異神・異人が入り込む余地を置かないことで"J"はへブルの民族性を示したのだと僕は思う。その壮大なドラマの最後に、バベルの話を置いたのは、異語・異神・異人が存在する現実との整合性を取るために、絶対に必要なエピソードだった。そう云えよう。

その"J"が紡いだドラマの通奏低音として存在する「地」は、言葉巧みに避けられてはいるが・・異物である。しかしその「地」なくして世界は存在しない。だから"J"は、その地もまた神が最初に創造したものと書く。そして「天」は地に対応して作られたものとして言葉の後につける。"J"が見ている「天」は、まさに即物的な「青い空」そのものだ。しかし"地"は違う。地は正にすべてを産みだす「母」である。"地"の存在は、それほど"J"の話の中でそれほど重要なものなのだ。

しかし、その"地"は・・・間違いなく異神たちの"地"である。たしかに"J"は「主なる神が地と天とを造られた時」とさらりと通り過ぎ、それが「神の創造物」と一度だけ書くが、その構造・情景をみれば、それがメソポタミアのものなことは一目瞭然だ。

その"地"を使って神はアダムを産みだし、「2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造」った。素材は、すべて"地"だ。宙から忽然と表したわけではない。
僕はそこに"J"の正常なバランス感覚を見る。
彼は、へブル人の起源譚を書くにあたって、メソポタミアを完全に無視した荒唐無稽な絵空事にしなかった。おそらく彼の書いた話にも、元となる口伝は有ったに違いない。もしかするとそれらは、メソポタミアに伝わる神話と酷似していたのかもしれない。彼はそれらを紡いで、壮大なドラマを書いたに違いない。その創作過程の中で、"J"は我らが神と、旧神たちの折り合いを、旧き神々を「地祇」とすることでまとめたのではないか?僕にはそう思えてならない。
だとすると・・蛇の話は、すっきりと腑に落ちるのだ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました