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甲州ワインの謎#05/渡来人秦氏について

ここで論を進めるために、渡来人である一族のひとつ、秦氏に注目します。
日本書紀 巻第十 応神天皇紀にこうある。

十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津彥不來焉。

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。

即位14年2月 百済が絹衣工女(=縫製技術者の女性)を献上。弓月君が百済から帰化。葛城襲津彦を派遣して百済に残った弓月君の民を迎えに行かせるが3年経っても帰国しなかった。
即位15年8月 百済は阿直伎と馬を献上。阿直伎は馬飼であり、読み書きができたので菟道稚郎子の先生となる。王仁を呼び寄せる。
即位16年2月 王仁が来日。百済の阿花王が死亡。
即位16年2月 平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣して、新羅を抑え、葛城襲津彦と弓月君の民を来日させた。
即位19年2月 吉野宮で国樔人と酒を飲む。倭漢直の先祖の阿知使主・都加使主が帰化。
即位22年3月 難波の大隈宮へ行幸。兄媛が吉備の実家に帰る。
即位22年9月 淡路島と小豆島へ。葉田の葦守宮へ。兄媛の兄の御友別の子供に吉備の一部を与える。
即位25年 百済の直支王が死亡。子供の久爾辛が王に。
即位28年9月 高麗の使者の文を読んで菟道稚郎子が無礼だと怒る。
即位31年8月 伊豆国で作った船の枯野の功績を讃えるために、材料で塩を作り、諸国に配る。燃え残りで琴を作らせる。新羅の船から出火。お詫びに技術者を献上。
即位15年8月 百済は阿直伎と馬を献上。阿直伎は馬飼であり、読み書きができたので菟道稚郎子の先生となる。王仁を呼び寄せる。
即位16年2月 王仁が来日。百済の阿花王が死亡。
即位16年8月 平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣して、新羅を抑え、葛城襲津彦と弓月君の民を来日させた。

此処に名前が挙げられている「弓月君(ゆづきのきみ)」が秦氏です。
十五代応神天皇の時代(AC300~400)に、人民10,000人を引き連れて渡来したらしい。かなりのおお所帯です。弘仁6年(AC815)に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」によると、融通王(弓月君)は秦始皇帝の子孫と記されています。漢人と漢人が引き連れた集団だったことは間違いない。上記書紀に「百済から渡って来た」とありますが、これは当時の朝鮮半島の様子が窺える一文です。当時、朝鮮半島は動乱に追われて幾つもの中国本土からの亡命政権が成立しており、新羅/高句麗/百済は彼らが支配する国家でした。彼らが相食み、そこへ新しい勢力が北から侵攻し壮絶な殺し合いに敗れた人々が逃げてきたと見るべきでしょう。
弓月君(秦氏)は渡来すると、その拠点を豊前国に置きます。10,000人の大所帯ですから朝廷があった軽島豊明宮(現・奈良県橿原市大軽町)に全員が住むわけには行かなかったのでしょうね。以降、摂津国、河内国(寝屋川市太秦)、大和国、山背国葛野郡太秦、山背国紀伊郡(伏見)などに拡がって行きました。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました