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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#32/オランジュ#04

https://www.youtube.com/watch?v=ujFL4tWH9j0

朝食の後、しばらくしてチェックアウトをした。そして荷物はそのまま置いて朝の散歩へ出かけた。オランジュ歴史博物館Mvsée d'art de d'histoire d'Orange(Rue Madeleine Roch, 84100 Orange)である。
http://www.musees-mediterranee.org/portail/index.php?menu=1&num_musee=118
五分ほど南へ歩くとマドレーヌ・ロック通り沿いにあるからすぐにわかる。オープンは9:30とのことだった。もともとは此処は17世紀に作られたジョルジュ ヴァン キュイルGeorges Van Cuylという人物の私邸だったらしい。
コレクションは遺物も絵画も整然と飾られていた。上の階には私邸時代の家具や皿など18世紀の生活用品がかざられていた。ローマ時代のものが中心だが中世の絵画なども多かった。小振りな展示なので見やすい。早い時間だったからか・・若い母子のグループが何組か有った。
「ここの遺跡は全部オランジュの町で見つかったもの・・なんでしょ?」と嫁さんが言った。
「ん。1700年は経っているのに・・良い状態だ。中世に入ってからのコレクションも、この町で発掘されたものだ。もしフランス革命での蹂躙がなければ、もっとたくさん色々なものが残っていただろうな。・・僕は思うんだよ。この町にこれほどローマの遺跡が保存されているのは、住民にローマへの憧憬が有ったからだろう、とね」
「憧憬?」
「ん。government of the people, by the people, for the peopleだよ」
「リンカーン?」
「そうだ。国家に超人である王はいらない。民は王に奉仕するために生きているわけではない。・・その理想をオランジュ公はローマの共和制に見ていたんだ、と思うな。たしかにオランジェ公国は1703年にルイ14世のものになっている。でもその時でさえ、オレンジ公はオランダという可能性を育んでいたんだよ。民は/商いは、結局は王に克つ。


この街、北のはずれに凱旋門Arc de Triompheがある。その傍にローマの築いたアグリッパ街道が有った。オランジュはローマ道を駆使して西と東を通商で繋いでいたんだ。そして立農として葡萄畑とオリーブを支えていたんだよ・・征服と侵略ではない。商いを育んで、民と国を豊かにしていた・・それがプロヴァンスという地域のもの凄さだ」
「凱旋門があるの?」
「ん。BC35年に、この町を創設したガリカGallic第2軍団の退役軍人のために作られた。Arc de Triomphe(Av. de l'Arc de Triomphe, 84100 Orange)破壊されずに良い状態で残っている。
http://www.poptourisme.fr/

オランジュはローマ崩壊後、サラセン人に支配されたんだ。その支配から民を放ったのがオランジェ(オラニエ)公国Principauté d'Orangeだ。1150年だ。
ちょっと山登りになるが・・オランジュ公国の城塞が有ったところまで行こう。サン・チュートロペの丘だ。すぐ近くだ」
博物館を出て、右へ。そしてトゥレ通りを環状道路まで歩いて、Uターンするようにモントフィリップ・デ・シャロン通りMnt Philippe de Châlonsを入っていくと急こう配で坂になる。頂上までは10分程度だ。登りの途中に幾つも城塞址が見えた。道は変形な四差路になるがこれを右に曲がるとBellevedere colline est(Square des Orangevilles, 4B Mnt Lambert, 84100 Orange)に出会う。

「すごいわ!街が一望できる」嫁さんが驚きの声をあげた。
「此処がサン・チュートロペの丘Colline St Eutrope(148 All. du Dr Rassat 126, 84100 Orange)だ。
サン・チュートロペSt Eutropeはマルセイユの人でな。おお金持ちの倅だった。放蕩な人だったが夫人が無くなったことで僧侶になった。そしてオランジェの司祭になった人だ。しかし司祭らしきことをするのが嫌で仕方なかったらしい。ところが神さまに会っちゃったらしい。」
「あらま、また神さま?ほんとによくプロヴァンスのひとは神さまに会うのね」
「それで改心して、自分から率先して開墾に参加して街を作り上げた人なんだよ。いま見学してきた歴史博物館の前にローマ古代劇場Théâtre antique d'Orange(Rue Madeleine Roch, 84100 Orange)があるんだけど、その後ろにあるのがサン・チュートロペSt Eutropeの丘なんだ」
http://www.theatre-antique.com/
「なるほどねぇ」
「オランジュ公は此処に自分の城を建造した。1150年代だ。しかし残念ながら大半が散逸してるから残骸しかみられないな。ルイ14世が徹底的な破壊を命令したからな。いまは土台部分が残ってるだけだ。このまま反対側からローマ古代劇場へ下りよう。あれを見学してから戻ろう」
登ってきた道と反対側のラファエル・モゼ通りを下りた。道は判りやすい。他にも観光客が同じ道を歩いている。5分ほど森の間を抜けて街角へ出た。
少し歩くと古代劇場の入り口が見えた。https://www.youtube.com/watch?v=BRvLkMKiegE

平日の早い時間なのに観光客はわりといた。
「此処は、BC100年代に作られた。アウグストゥスの治世中だ。収容人数は9000人だという」
ゾーンは身分階級によって3つに分かれていた。下の部分に楽隊席が有った。
「階級差で分かれていたの?」
「ん。いまの民主主義より明解な階級社会だからな。一番下のゾーンはima-caveaというんだ。20層に分かれていた。そのうち3層は騎士たちのための層だ。その上はmedia-cavea、市民と商人たちのための層だ。9層あった。その上はsunma-caveaは支配層のためのゾーンだ。5層あったという」
「それで9000人!全部集まったら、街から人の姿は消えちゃったんじゃないの??びっくりね」
「舞台は木製の床だったそうだ。 幅は61mあったという。舞台壁の高さは35m。大理石の柱で美しく飾られていたそうだ。今でもその残滓はあるな」
中央に王室のドアと2つの側面のドアがある。側室のドアは俳優たちの出入り口だったという。王室扉の上にケンタウロスの彫像があった。そして舞台壁の龕には巨大な彫像が埋め込まれていた。
「大きいわね」嫁さんが言った。
「アウグストゥス皇帝の像だと云われている。3.5mあるそうだ」
「大きすぎて、革命軍も壊しようがなかったのね」
「ん」




無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました