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悠久のローヌ河を見つめて07/アルル01

アロプロゲス族の租となる民が、小アジア黒海南東海岸にあるシランから、葡萄を携えて西へ斬進し、ウイーンからジュネーブ/レマン湖そしてローヌ渓谷に広がって行ったという話をした。そして彼らの持ち込んだ寒冷耐用種の葡萄が、後代「シラー」と呼ばれるようになったという話を。
彼らがローマ帝国によってローヌ川以東の地域で葡萄を植えることを許され、広くシラーが同地域に使用されるようになったのは、紀元後すぐのことだった。そしてこの葡萄が北進した。
これがシラー種の起源である。
では、それまでこの地域に葡萄がなかったのか?もちろんあった。
その話をこの後したい。

そのまえにアルルArlesiensと云う町の事を少しだけ。
アルルは、ローヌ川が二つに分かれて地中海に注ぐ分岐点に川に寄り添うようにある。太古から「塩の町」である。此処は紀元前5世紀頃にローマ人が小さな城塞都市として建造した町で、他のフランスの地方都市とは違う雰囲気を持っている。おなじローヌ川に沿って出来上がった町アヴィニョンとも、現在は大きさもそれほど変わらない町が、なんとも特有な雰囲気があるのだ。フランス的でないというか・・何と云うか・・ローマ的だ。

アルルという城塞都市を建造したのはローマの執政官マリウスである。大河ローヌ川は水量が多く流れも速い。水運に利用するには厄介な川だった。マリウスは町を作ると共に地中海と繋がる運河を作った。これが町の大動脈となった。ちなみに、その運河に掛かっているのが、ゴッホが描いた「ラングロワのはね橋」である。

パリ/リヨン駅からTGVで4時間余りで辿りつくこの古い町は、冬でも日差しが眩しいところだ。
中世以降、アルルは前述運河設営によってローヌ川を利用する水運都市として栄えた。町は水運の中継点として安定した地位を1000年あまり続けた。しかしその仕事を19世紀半ばから鉄道に奪われ、ローヌ川を利用した水運業そのものが衰退すると、他に産業らしい産業をもたなかった町は、為す業なく惰眠の時代へ沈みこんだ。なし崩し的に観光が主産業になってしまったのだ。
しかし、そのシーズンは狭く、繁忙期を外すと閑散とした町になる。観光客を呼び込む声もしなくなってしまうその様子をみていると、明るい日差しの下だからこそ余計にさびしく見えてしまうのは僕だけではないと思う。
きっとその静かな町を、ゴッホは彷徨ったのだろう。

僕らが町を歩く時も、このゴッホの視線がある種規範になる。彼が描いたカフェ。運河。アルルの女たちの幻影を追うことになる。

しかしそれにしてもアルルは"フランス的"でない。
なぜだろう?と考えながら町を散策していると、小さい町である。必ず町中央にある小高い丘の傍らアレーヌArenes d'Arles(古代劇場)に辿りつく。そしてその前に立つと、はっ!と思うことがある。
それは町の中心に教会がないことなのだ。
このアレーヌがアルルの町の中央なのだ。つまりこの町が出来たころは未だキリスト教は存在しなかったということだ。そして町そのものがスペイン人の手に渡った時も、未だキリスト教はなかった。フランスなのに、キリスト教が中心にない地方都市!これは中々不思議な景色だと云えよう。

そんな目で町を見つめて歩くと、もうひとつの事に気づく。町の建物はもちろん全て石造だが、その素材が全て先ほど散策してきたアレーヌの石材と同じものなのだ。斯ほど古い町だということ。通りは砕いた石が張りつめてあり、殆どすべて路地としか言いようがないほど細い。とっても観光バスなんか通れない道ばかりだ。
もちろん、今は幾つものの荘厳な教会が、町の中に建立されている。しかしそれでも町の彼処に前キリストのローマの匂いが根深く残っているのだ。それがこの町の何とも特有な雰囲気を生み出しているのではないか?
そう思ってしまう。
フランスの中の。もっともフランス的ではない町。それがアルルだと僕は思っている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました