東京島嶼まぼろし散歩#23/伊豆諸島03
翌日はゆっくりチェックアウトした。同じ運転手さんに今日もお願いをした。
「今日のご予定は?」
「少し家内に三原山を見てもらいたいです。それからどこかよさそうなランチをご紹介いただけると嬉しいです。その後は大島空港へお願いします。14:05の三宅島行きのヘリコプターを予約してます。」
「承知いたしました。」
TAXIは三原山へ向かった。ずいぶん前に母が元気だったころ、店の従業員を連れてきたことがある。40年以上前だ。
しかし嫁さんは、はじめて載るヘリコプターのことで動転してる。三原山どころじゃないとこだった。
「そりゃ、飛行機は好きよ。でも壁があるから好きなの。壁がない空飛ぶものに乗るなんて・・」
「大丈夫。八丈島までは20分だ」
「調布と大島くらい飛ぶの?恐ろしいわ。」
「まあ、載ってみよう。存外楽しいかもしれないぞ」
紹介してもらった店で食事したのち、空港へ入った。
13:00くらいに到着した。嫁さんはまだオタオタしていた。
気を紛らわせるつもりだったのか、唐突に田沼意次の話をしはじめた。
「ねぇ、田沼意次が失脚した後、島問屋のものに伊豆諸島は島問屋のものに戻ったの?」
「一時的にね、しかしそこに思わぬ伏兵が出てきた。三井家だ。三井家は島問屋や廻船業者を狙わずに徳川幕府を狙ったんだよ。公儀の代理として伊豆諸島の専売権を握ったんだ」
「あらま」
「三井は周到でね、幕府の専売機関という錦の御旗を掲げる島方会所の頭取を、自分たちではなく松沢孫八という、江戸本石町で油問屋と金貸しを兼業していた男に託したんだ」
「どうして自分ではやらなかったの?」
「ん。三井は最初からこの交易の本質を見抜いていたんだ。島交易は立替ビジネスだ!・・とね。貿易より金貸しビジネスだ!とね。だから自分から率先して首を突っ込まなかったんだよ。もちろん他のところには、しっかり首を突っ込んだ。利益を獲れる部分はマメに吸い取るのが三井のやり方だからな。以後、幕末まで三井家はキッチリと利権を押さえながらこの体制を守り抜いたんだ」
「すごいわね」
「三井文庫所蔵の古文書に『島方会所定書』というのがある。東京都公文書館にある東京市史稿・産業篇 第47-124で、この島方会所定書がどんなもんだかわかるよ」
引用する。
三井文庫所蔵『島方会所勤務者産物買請方』文化5年(1870)9月・産業4-26頁
「伊豆国附島々物産会所役人は、このたび『島方会所書』を作成した。島方会所は、島方の困窮御救いのため、幕府が寛政八年(一七九六)に設立した流通機構で、会所は江戸鉄炮洲にある。この島会所設立によって、島民が積み出す産物はすべて島会所を通して売り出すこと、また島民が購入する日用品等は必ず島会所を通して買い入れる仕組みになっていた。つまり、幕府は、島方問屋と島民の私的な取引を禁止し、伊豆七島の産物を江戸において独占してきたわけである。
設立から八年を経て作成された今回の『掟書』は、火の用心 (一条)、役人の勤務時間 (二条)、船の出航日(二一条)、島民世話役勤め方(二二条)など全1五条からなり、会所内に張り出しておくとのこと。島民の生活安定のために設けられた会所だが、江戸で評判の高い八丈反物をめぐって、幕府・島民・江戸呉服問屋の三者の利権絡みから混乱が生じるなど、その運営をめぐっては少なからず問題が指摘されている。
掟書制定により会所の運営健全化につながるか否か、今後とも注視が必要である。《文化六年=一八〇九年》」
「三井文庫の『島方会所定書』は結構興味深くてね。嘉永二年四月の「覚」の条には、「会所世話役之儀、起立より産物取扱其役二而御結合引後泊番いたし」「会所世話役共義者産物取扱方其役二付、撰方立合、目方掛改等入念候得者不及申、惣而御納屋向取締方相心得候筈」いう記録が残されている。つまり三井も島問屋がやったように、島の物産を取り扱うだけではなく、保管倉庫・設営/その運営と管理/そして泊番など会所の管理まで一括して仕切ったんだ。
江戸市内の蔵は三井が持つ日本橋本町/鉄砲洲十軒町/神田柳町を使っていたようだ。こうした記録は天保九年の三井家・島方諸入用の中に残されている。・・つまり幕府は‥要するに三井は・・島民が三井の江戸会所以外での交易することを全て禁止して、取引のために江戸へやって来た島民の旅宿は全て会所が決めた所にした。そして彼らが持つ路銀も管理した。会所以外から金を借りることも禁止したんだ」
「結局、島問屋の縛り付けを逃れたのに今度はオカミという看板を背負った三井の縛り付けを伊豆諸島の島民たちは受けたのね」
「ん。この体制は徳川幕府が消滅するまで続いた。三井の生かさず殺さず戦法だ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました