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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#05/アヴィニョン#05

https://www.youtube.com/watch?v=tlArBdehDJU

ローマはローマ市民以外に人頭税1/10と属州民税をかけていた。この1/10という数字だが、実際には建前でしかなかった。ローマは属州を締め付けるために、極めて酷薄な課税を行っていたのである。
属州シチリアの徴税請負人アプロニウスの税徴収法を例として、吉村忠典氏が著書『古代ローマ帝国』でこう書いている。
「前71年に総督ウェレスからレンティーニというポリスの小麦の「十分の1税」を21万6000モティエ(量の単位。1モディエは8.754リットル)で請け負い、レンティーニ人とは54万モディエを支払わせる契約を結んだ。この差額の32万4000モディエが「儲け分」である。その他、54万モディエの6%、すなわち3万2400モディエをそれに付加させ、さらにリベートとして3万モディエの小麦に相当する金額を受け取った。つまり38万6400モディエを手にしたわけである。ローマ人が1年に必要とする小麦の量がせいぜい40モディエであったから、この利益は莫大だった。」
ローマは属州の管理を軍組織/それに跨る富裕層に任せていた。


実は、ここにローマの国家経営がもつ最大欠点があからさまに出ている。
ローマは当初からギリシャ式の市民参加型直接民主主義を取り入れていた。そのために所謂専業の官僚職を持たなかった。ローマは、国家を維持するだけのための官吏が存在しない国家(当初は)だったのだ。そのため、こうした税徴収などは軍に関わる軍人/騎士などに任せた。税徴収員はその仕事を請けるにあたって未徴収の場合は自分が補填をしなければならなかったので、富裕層しか出来なかった。寡占的な職務なので、彼らは武力を背景とし酷薄に徴収を行った。ローマは、それを見逃していた。ローマ市民が儲かるのはいい。属州は疲弊すべきだという論理だ。
こうして莫大に資金を得た騎士/富裕層は、さらに塩の専売業務、鉱山の採掘権、森林・漁業権の執行まで拡大化していった。そして第二次ポエニ戦争を挟んでラティフンディウム Latifundiumが台頭し、次第に勢力と資金力を蓄積する平民(騎士)派は、元老院を拠点とした閥族派と利害の上で大きな齟齬を孕ませていく。
この齟齬が、紀元前1世紀に起きたローマの内乱に繋がっていくことになる。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました