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LAST FRIGHT OF SAIGON追加分/取り上げられた資産はどこへ消えたか?

LAST FRIGHT OF SAIGONのなかで、南ベトナム政府が保持していた16tの金塊を手土産にして中央銀行総裁に納まった「南側の数少ないベトナム戦争勝ち組」の男。グエン・バン・ハオNguyen Van Haoの話を書いた。あの戦争ではコンサンの残虐性を恐れた殆どの指導者が敗戦直前に雪崩れるように海外逃亡を図ったが(しなかった者できなかった者は全て思想教育という名の強制収容所へ送られた)ハオは小器用に立ち回った男だった。

さて。日本の場合はどうだったろうか?1945年に戻ろう。たしかにあの戦争では兵糧攻めに遭った。しかしストックそのものが完全に枯渇していたわけではない。それなりに余力は保持していた。
そうした資産は、いずれ全て勝者に簒奪されるものである。戦争では、勝者がその戦争で失った資産を敗者を食い散らかすことで埋めるものだ。これは古今東西変わらない。
8月14日。ポツダム宣言受託と陛下が御決心されたとき。時の鈴木貫太郎首相は、同日すぐさま「軍其ノ他ニ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件」という通達を出している。これは「陸海軍は速かに国民生活安定の為めに寄与し、民心を把握し、以て積極的に軍民離間の間隙を防止する為め、軍保有資材及物資等に付、隠密裡に緊急処分方措置す。尚お陸海軍以外の政府所管物資等に付ても右に準ず」と云うものだった。(大蔵省財政史室編「昭和財政史第17巻」)漫然と簒奪は待たないという鈴木貫太郎の意思表示だった。

鈴木貫太郎は幕末に大阪で生まれた。1898年海軍大学校卒業後。1923年に大将となったのち連合艦隊司令長官を務めた。リベラルな一面を持っており、そのため2.26事件の時は反乱軍に襲われて重傷を負っている。内閣総理大臣になったのは1945年4月7日。敗戦が決定すると直ちに総辞職している。戦後、枢密院議長を務め、新憲法などの審議に加わった。享年昭和23年4月17日。

すでに鈴木貫太郎は老境にあった。その老耄を突く評価も儘ある。しかし「一介の武弁」と自他とも認める鈴木はこのとき陛下の「民は残る」というご聖断を成就させるには、米軍の簒奪から可能な限り国民の資産を守るべきであると、即断したのである。
この決定を受けて、薩長勢で構成されている陸海日本軍は全ての司令官に兵站の全てを民間に放出せよという機密指令を出した。これが「陸機363号(8月15日)」である。この指令には「払下代金は支払いを要せず」とあった。この命令は速やかに実行された。
・・もちろん癒着もあった。個人的な秘匿もあった。着服もあった。しかしこの指令によって、少なくとも日本人へ・・資産は継承されたのである。

続いて8月18日、政府から「機密書類ノ焼却ノ件」という国の通達が出た。機密書類は全て焼却せよという指令だった。このときの首相は、東久邇宮稔彦王だった。
各省/地方自治体はこの命令に従った。しかし、どこまでが「機密」かの判断は夫々に委ねられたので、徹底償却までに至らぬまま8月28日を迎えることになった。・・資産は、この2週間でほぼ2/3ほど巷に消えた。

8月28日、日本上陸した米軍はすぐさま、日本軍が確保しているはずの兵站/資産の差し押さえを行った。・・それがあまりにも少ない。
驚愕した米軍は、アメリカ戦略爆撃調査団/United States Strategic Bombing Survey, USSBS "uzz-buz"に調査を命令した。同調査団は米陸海軍の合同機関で「米軍の行った戦略爆撃の効果や影響について調査し、将来の軍事力整備に役立てること」のためにあるセクションだ。調査団は、600余人の旧軍人/政府関係者に強制出頭を命じた。

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かなり強引な調査が実行されたが、結果として、15日から28日の間に民間へばらまかれた資産は、杳として行方が分からないままに終わってしまった。翌年7月に出された報告書には、苦し紛れに「日本政府は充分な食糧備蓄があった。少なくとも2年分の備蓄があった」「横領された隠匿物資が闇市などに流れ、経済の回復を著しく阻害した」と書いている。そして「陸海日本軍が保有していた兵站のおよそ70%が、最初の2週間で行方不明になった」とまとめている

さて。いつものようにSCAPINを追う。
まずアメリカ政府SWNCC(3省調整委員会)は「降伏後における米国の初期の対日方針」を1945年9月22日に出している。この方針の中で、SWCCは日本が持つ資産はすべて「略奪資産」であると決めつける。なので、これらの資産は「すべて略奪先へ返還する」と書く。此処で云う"略奪先"とは即ち戦勝国側である。

この方針に基づいて11月11日、連合国最高司令官(SCAP)マッカーサーに対して「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」を下達した。マッカーサーはこの指示に対して冷笑的だった。彼にとって、勝者が敗者の死肉をどう食い漁るかなんぞ下種の極みだったのだ。彼にはFEC(極東委員会)なんぞ、ハイエナの集団にしか見えなかったのである。

それでも担当所轄期間は組成した。それが「民間財産管理局Civil Property and Custodian(CPC)」だった。責任者はタンゼイ准将Brig. Gen. P. H. Tansey。そして1946年4月19 日SCAPIN885「日本帝國政府は 1937年7月7日(日支事変勃発日)以降に日本軍が占領した地域において、法律または法形式の手続きによったか否かに拘わらず、強制、没収、強奪、略奪によって取得または無価値の通貨によって購入し現在内地に存在する一切の財産を調査し速やかに没収しその目録を提出すること。目録には詳細な説明、たとえば略奪した場所。日時、数量、元の所持者の氏名と住所などを記し、地域別に編集して6月1日までに GHQ/SCAP に提出すること。またこの指令を実施するための立法措置をとること」を発令した。

これを受けて同年5月9日、日本政府は「内務省令第 25 号11」を発令。各部署に「略奪財産を現に所有または所持している者は速やかに必要事項を記入し5月20日までに所轄の地方長官に申告すること、違反者には 2〜3 年の懲役または 5000円の罰金を科す」と通達を出した。しかし所詮落穂ひろいである。翌年の段階でも総額で440万円程度、5年間で7000万円程度で終始した。
では。返還は行われたのか? 行われた。
1946年13件/1947年/75件/1948年98件/1949年190 件/1950年48 件/1951年17 件で総計441件。返還されたのは貴金属類/機械船舶/宝石類などなど多岐にわたるモノだった。返還先は中国138件/英国99件/オランダ80件だった。うち、高額商品の大半はオランダに移り、そして消えた。結局のところ、大半が行方も知れず闇に消えた。



無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました