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ご府外東京散歩#10/プレタポルテな地方自治体制#02

昭和18年7月1日、戦争遂行のために、東京市は東京都制に替わった。これにより東京都は内務省の直接管理になった。都の首長も公選ではなく、内務省が任命する官吏に替わった。こうした抜本的改革後も35区はそのまま都の下部組織として存続した。。
そして8月15日終戦である。「人民の人民による人民のための政治」を標榜する"解放軍"が、すべての政治的決断、すべての思想上の判断に"是正"の斧を振った。

このGHQによる日本の民主化・分権化政策を国民がどのように受け止めていたか「文京区史」から引用したい。
「アメリカ第八軍の横浜上陸開始によって、アメリカ軍を主体とする連合軍の占領体制が完備され、マッカーサー元帥を司令長官とするGHQがお堀端の第一生命に設置されるに及んで、しだいに日本に民主主義の波がひたひたと押し寄せて来たのである。敗戦という史上初めて経験する現実と、上から強行されてくる民主主義という概念に、国民はとまどいせざるを得なかった。灰燼の中に建てられて行くトタンばりのバラックの中で眠りながら、ヤミ市でふかしイモをほおばりながら、ガラス窓の破れた電車に乗りながら、そしてまた国民服やモンペに身を包みながら、人びとは「民主主義」「民主主義」といったことばをお互いにかわし、また耳にしながら、瓦礫の町を右往左往していた。」
その斧に人々は戸惑い、あるものは興奮した。
中央からの一方的管理ではなく「地方自治を旨とせよ」も、その是正の一つだった。

先ず「東京都制」の改正案が帝国議会に提出された。昭和21年7月2日である。これにGHQの全面的手直しが入り、改正されたものが同年9月27日に公布され、10月5日からの施行になった。
このとき昭和21年9月20日、都はGHQ第32地方軍政部に、都の区の整理統合を必要とする理由を4点にまとめて提出している。
そのうちの第3第4にはこうある。
3. 地方制度が大改正され地方分権が徹底すると自治区の権能は著しく民主的となり大拡張される。そうなると自治区を中心として都民の日常生活関係が有機的に連繫されることとなるので生活共同圏を構成するに適する地域をまとめて一の区にしその地方的な事務事業を実施するのが適当と思ふ。現在の区はこの要請に適合しないものが多い。
4. 理想的な地域を包括し得たならば自治区が有機的な自治活動をなし得てその能率が向上するであろう。そして国や都の事務事業を区に移管すると共に区民の政治意識を高揚し各地区の再建を促進し以て文化都市東京を再建したい。

この新「東京都制」により大幅な自治権が都に与えられた。具体的には「区長の公選」「区民の区政参加」などである。
しかし実際に施行し実施してみると、戦災による各区内の死亡者の多寡および閉鎖企業の数などにバラツキが有りすぎて、従来の35区制では包括的な対処ができないことが判ってきた。そのため経営的に成立しない区は併合し、35区は22区に整理統合するしかないという方向へ事態は進んでいった。昭和22年3月15日である。うち練馬区から板橋区が分離され、同年8月1日、東京都は23区となった。

昭和22年3月10日、東京都告諭第1号には「統合の理由」として
①戦災によって各区の人口その他に甚だしい差異が生じたため、これを調整しないと復興その他の施策に支障があること。
②地方制度の改正によって自治権が拡充されたため、各区が自治体としての機能を十分に発揮する上で、区政が相当充実した基礎の上に立つことが必要とされた。
の二点が挙げられている。

こうして東京都は特別地方公共団体に定められ、区部(特別区23区)/多摩地域(26市と西多摩郡3町1村)および島嶼部(2町7村)となり現在に至っている。
・・しかし、このGHQが振った「地方自治」の御旗の許に出来上がった東京23区は、現在70年の紆余曲折を経て、結局は戦前の中央集権型に再度収斂しつつある。・・もしかすると・・だが、まったく独断だと前振りをして敢えて書く。「任せて安心」「みんなと同じが幸せ」な日本人には、アメリカ人がいう「自治」の概念はフィットしないのではないか? そんな気がしてならない。
広大な西部を旅すると、町が二つの道の交差点に出来上がり、そして大きくなったプロセスを、いまでも残滓として残している地に出会う。おそらくそんな町には、必然的に「地方自治」という概念が生まれ得たのではないか?そう思ってしまう。それを日本という超過多構造的地域に持ってくるのは、あまりにも杜撰すぎるのではないか?そんな風に思ってしまうのだ。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました