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ワインと地中海・番外02//謎の「海の民ルウィ人」

「海の民ルウィ人」は紀元前1200年代半ばに地中海東側に吹いた突風でした。忽然と歴史のページに登場し、古代ギリシャの都市を舐めるように破壊尽し、ギリシャを一気に文字も文化も持たない暗黒時代へ突き落しました。同時にヒッタイトを滅ぼしミケーネを滅ぼし、レバント地域の都市も蹂躙した。最後はエジプト王国に到達し、壮絶な戦いを仕掛けた。そして登場したときと同じように忽然と姿を消してしまうのです。

彼らについては、あまり詳しいことは判っていません。彼らに襲われて、かろうじて勝利を収めることができたのは、エジプトだけだったからです。自分たち自身では、何も資料になるものを残さなかったリウィ人について知りたいと思うと、どうしても襲われた側の資料を調べるしかないのですが、その破壊があまりにも徹底的だったので、資料ともいえるものはエジプト以外には殆んど残っていないのです。

この稿で話すルウィ人のことも、大半はエジプト人が残した資料です。
ウガリト最後の文書(紀元前2000年ころのもの)に、その記述が有ります。

もともと、彼らを「海の民」と呼んだのはエジプト人でした。ルウィ人によって滅ぼされた他地区では、彼らについての名前さえ残っていません。

エジプト人は「海の民」について「長身で、肌白く巨漢、体毛金色にして碧眼」と書いています。僕が彼らを中東発祥の民族ではないとする理由は、この記述にあります。もちろん幾つかの流浪の民の集団だったかもしれません。しかしその中核は、欧州大陸を彼方・北方のケルト人ではないか?そう思ってしまうのです。彼らは、既に欧州大陸へ川筋を使って相当数入り込んでいた。各所に集落を作っていました。その中の一派がアルプスを越えて(例えばローヌ川を辿って)地中海に辿り着いていた可能性は充分にあると思うのです。

エジプト人たちが残した記録によると「海の民」は、キプロスやキリキアの島に拠点を置いていたとあります。また同時に彼らは陸上輸送隊を持っており、牛車を利用して荷物を運んでいたとある。
戦いの主体は帆船隊で、突然海から来襲して街を燃やし略奪したと書かれています。その戦いは獰猛で、戦利品は敵兵の腕や性器だったとも記されています。

その戦いでエジプト側は、彼らを生きたまま捕まえたときは、すべて烙印を押して奴隷にしました。当時の奴隷は消費財です。数年でボロボロになってしまう。「海の民」が忽然と消えてしまう背景には、このエジプト人による"奴隷化"ということが大きく要素としてあるのかもしれません。いずれにせよ、奴隷の寿命は短く子孫を残すことはないので、壮絶な戦いの中で生き残ったルウィ人も、ほんの短い期間で跡形もなく消え去ってしまったのかもしれません。今となっては知る方法もないのですが。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました