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勝鬨橋と晴海通り#07

累々と重なった屍の上にも人は生きる。崩れた家屋/壊れた夢の上にも人は草筵を紡ぐ。
震災後、すぐさま雨露を凌ぐバラックが、まるで「人は此処にあり」と、街のあらゆるところに建った。まだ燃え燻る住家の傍らに焼け焦げたトタンを建ててその下に寝起きした。親類縁者の死を嘆きながらも、人は子を守り伴侶を守り己の糊口を凌がなければならない。

民の苦しみに御心を痛ませられ陛下は9月12日に災害の救護・民心の安定、帝都復興等に関する詔勅を賜わった。そして11月10日に国民精神作興に関する詔勅をされた。まず救済。そして復興。山本内閣は迅速な対応を求められた。
後藤新平は、その最前列で戦った。
震災のための臨時帝国議会は大正12年12月10日に召集されるのだが、それに先駆けて山本内閣は130余件の勅令を発し、15件の緊急勅令が出した。それを見てみよう。

1.非常徴発令
2.一定の地域に戒厳今中必要の規定を適用するの件
3.治安維持の為にする罰則に関する件
4.私法上の金銭債務の支払延期及手形等の権利保存行為の期間延長に関する件
5.震災に際し生活必需品に間する暴利取締の作
6.東京府神奈川県等に於ける現任府県会議員の任期等に関する件
7.震災被害者に対する租税の減免等に関する件
8.生活必需品並土木又は建築の用に供する器具機械及材料の輸入税の低減又は免除に関する件
9.震災他の行政庁の権限に関する処分に基く権利利益の存続期間等に関する件
10.臨時物資供給令
11.臨時物資供給特別会計令
12.東京府及神奈川県に於ける衆議院議員選挙人名簿調嫉に関する件
13.日本銀行の手形の割引に因る損失の補償に関する財政上必要処分の件
14.震災に因り株主名簿を喪失したる会社の株主総会等に関する伴
15.法人に対する破産宣告に関する件

9月29日より帝都復興院総裁となった後藤新平は、これらすべてに関わった。超人的な活動である。
そして第47会臨時帝国議会は大正12年12月10日に召集。山本政府は9案を提出し、うち以下7案が両院を通過し、裁可公布されている。
1.特別都市計画案
2.震災に因り租税を減免せられたる者の法令上の納税資格要件に関する法律
3.復興事業の施行に伴い支払うべき金額を国債証券を以て交付する等に関する法律
4.震災善後公債法
5.東京帝国大学臨時政府支出繰入に関する法律
6.大正十二年歳入歳出総予算追加
7.予算外国庫の負担となるべき契約を為すを要する件(東京市、横浜市、東京府、神奈川県の復興事業費に関するもの)
以下2案は議論が紛糾し採決されなかった。
8.火災保険会社貸付金に聞する法律
9.火災保険会社貸付資金公債法案

ともかくも体制は整った。万全ではないが復興に向けて、復興に向けて新平は胸ふくらませた。
そして第48回通常帝国議会が大正12年12月25日に召集された。開院式は翌々日27日となった。

ところが・・この開院式に向かっていた陛下のお召し車の前に暴漢が飛び出し仕込杖銃を撃つという事件が発生してしまった。
弾丸は御車を傷つけただけで終わり、暴漢はその場で逮捕された。陛下はそのまま開院式に向かうことを望まれ、帝国議会開院式は取り行われたが、陛下が東宮御所へ御帰還されると、山本は即刻辞表を奉呈した。陛下はお顔を曇らせ翌日、山本を召された。そして「辞表は聴許ならず、留任して国務に精励すべし」と優諚を賜った。しかし山本は「優詔を拝してまことに感激に耐えぬが、このまま晏如して任に留まることは、臣節を尽す道ではない」とし、東宮御所に再び伺候かさねて辞表を奉呈した。陛下は聴許さられた。

こうして大正13年元日、枢密院議長清浦奎吾に大命降下、1月7日閣僚名簿決定とともに山本内閣は総辞職をした。
図らずも後藤新平は、片翼をもぎ取られたわけである。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました