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小説日本国憲法4-10/朝鮮戦争と云うカミカゼ

筆者は、朝鮮戦争こそ戦後日本を救った最初の「神風」だったと考えている。 では如何ほどの衝撃を日本経済に与えたか。
青山学院・米澤義衛先生の研究(経済審議庁/通商産業省作成「昭和26年産業連関表」に基づく)によると。もし特需がなかったとすれば、1951年には国内生産は5.55%,付加価値生産額は2.27%減少したであろうとしている。またもし、朝鮮戦争を契機とする世界的なブームによる日本の貿易拡大も存在しなかったとすれば。国内生産/付加価値生産額の減少率は,それぞれ15.30%、6.25%にも及んだであろうと試算している。 もしこの「神風」が吹かなかったら・・日本に戦後の空前な好景気は訪れなかっただろう。日本は農地解放によって小作民たちがセコセコと自分の田地田畑を耕すだけの国に戻されていたかもしれない。
朝鮮特需で日本国は如何ほど潤ったか。金額ベースで見てみたい。朝鮮戦争が始まった1950年は約1億5,000万ドルのお金が日本に流れ込んだ。(通商産業省賠償特需室編「特需とアメリカの対外援助」通商産業調査会) 翌年51年は約5億9,000万ドル、そして52年53年には約8億2,000万ドルである。
戦災に荒廃し、仕事も糧もない日本へ、降って湧いたのだ。
以降1954年には約6億ドルまで急減したが、1955年から60年まで4億ドル~5億ドル台で推移している。休戦後は、周辺国にある米軍からの受注が定常化したのだ。それでも61年以降は3億ドル台にまで落ち込んでいるのだが・・次に控えているべトナム特需によって66年に約4億8,000万ドルまで回復し70年には約6億6,000万ドルに達している。言うなれば「ベトナム特需」は「朝鮮特需」に継いで、日本に吹いた第二の神風によって、日本経済は触発され高成長を遂げたのである。
ちなみに。池田勇人の謳った「所得倍増計画」は、このベトナム特需がなければ、笑い話で終わった公約だったが、見事ベトナム戦争のおかげで、日本は高度成長期へ突き進んだのだ。

終戦後、日本の外国為替収支は深刻だった。特にドル不足は貿易に大きな影響を与えていた。これを払拭したのも、まさに朝鮮特需だったのである。
開戦から51年までの朝鮮特需による外貨受取額は、通常の外貨受取額外貨収入とほぼ同等に達した。続く 52年でも総外貨収入の1/3程度。54年でも1/4を占めている。
1952年時点の貿易受取額を見ると、約13億ドルのうち特需受取額は約8億ドルだった。しかしドル受取額だけで見ると、特需外貿易は約4億ドルしかなかった。つまり、その倍の金額が朝鮮特需で突然降って沸いたように生まれたのである。以降朝鮮特需が収まる54年までの間。通常輸出によって稼ぐドルよりも、特需によって稼ぐドルの方が多いままだった。
当初、米軍からの発注は夫々の部署が独自に行っていた。支払いは各部署がドル小切手を切り、そのを受取った日本の業者は、外国為替銀行で円に換えていた。 しかしその金額が巨大化するとGHQ/SCAPは、民政局G4経済科学局(ESS)へ管理指令を出した。具体的調達は、横浜に設置された在日兵站司令部JLC/Japan Logistic Command調達部Procurement Sectionが統括して行った。
JLCが調達した物資は、金属及び金属製品(類橋梁用鉄鋼材・有刺鉄線及び有刺鉄線を張るための鋼柱類)、機械類(蒸気機関車・鉄道貨車・トラック・乾電池など)、木材及び紙類(綿生地・毛布・麻袋など),,化学製品(薬品),非金属(石炭など)だった。なかでも最も発注が多かったのは自動車で、その発注に対応するため、1951年3月に私企業直接投資追加分として、7,000万円の融資が日産・トヨタ・いすゞの3社に対して行われた。
そして1952年3月からGHQ/SCAPが武器生産の許可を出すと、兵器特需が大きな比重を占めるようになっていった。Made in Japanの銃弾によって、朝鮮でベトナムで大量に消費され、日本は大いに潤ったのである。武器は作らない。しかし銃弾は作ろう。火薬は作ろう。戦車は作らない。しかし運搬用トラックは作ろう。修理もしよう。・・・戦争は儲かる。その具現化が日本の経済成長の根本に、どっかりとス掘り込んでいたのだ。
ところで、マンパワー/労働力の調達は、吉田政権が創設した調達庁が担当した。調達された人々は米軍から出された労務要求書Lobour Requisition を折り込んでLR労務者と呼ばれた。雇用者数は50年上半期は21万人台、翌年1951年6月1日には29万7,000人まで達した。公共職業安定所取扱の労務者数の統計を見ると、1950年7~9月の3ヵ月は2万人を越すLR労務者(常用・臨時)の雇用があり、その後も1951年5月まで毎月1万人程度の新規雇用があったという。 職種は、修理工・運転手・人夫・土工・荷扱夫・警備などで、修理工の雇用が圧倒的に多かった。
こうした降って沸いたような朝鮮特需は、日本の経済構造をはっきりと方向付けた。特に自動車産業を飛躍的に伸ばし、自動車王国日本を生み出した。「日本は加工輸出立国である」という方向付けは「朝鮮特需」そしてそれを継ぐ「ベトナム特需」によって為されたものである。
この特需について、吉田茂は1950年7月14日の施政方針演説でこう語っている。「万一大戦争の勃発した場合,軍備撤廃の結果わが安全保障は国民懸念の中心であったが,国際連合の今回の措置はわが国人心の安定に益するところはなはだ大なりと信ずる。わが国は,現在積極的にこれに参加する立場にはないが,可能な範囲内でこれに協力することは当然のことと信ずる。」
吉田は、これぞ千才一隅の機会と見たに違いない。結果としてみると、1955〜73年の約20年にわたり,経済成長率(実質)年平均10%前後の高い水準で成長を続けたのである。
1955〜57年/神武景気。1958〜61年/岩戸景気。1963〜64年/オリンピック景気。1966〜70年/いざなぎ景気と立て続けに日本は急成長を遂げた。 しかし「加工輸出立国」は儚い。必ず周辺開発途上国が競合として立ち上がり、価格競争になっていく。価格競争となれば先駆者は斃れる。いまの日本の構造不況は、相変わらず地場産業が「特需の夢」を追っているからだと言っても良いだろう。特需の夢は、おそらくもう二度と来ない・・だろう。

52年4月28日、日本の自立を祝うサンフランシスコ講和条約の調印式が、サンフランシスコのオペラハウスで盛大に開かれた。白洲次郎と吉田茂そして娘和子が私設秘書として同道している。華やかな、日本の再出発を象徴する祝賀会だった。
しかし、その裏で・・実は米国陸軍第六軍基地にある下士官クラブで。いつもは下士官たちが下世話なパーティをやる部屋で・・日米安全保障条約が粛々と交わされているのである。主席者はアメリカ側からは4名、日本からは吉田茂1人だった。白洲も和子も立ち会っていない。
アメリカは、日本に再軍備させるつもりはなかった。"神風"が吹こうがなんだろうが・・日本は唯々諾々とアメリカに保護されたまま経済活動だけに邁進し、その成果をアメリカへ貢ぎ続ける国。"ひも付き売春婦"のままにするつもりでいたのだ。憲法第九条は美句麗句でデコレーションされた、そのための深く突き刺されたアンカーである。
日米安全保障条約の調印場所として、サンフランシスコ郊外に有る基地内の些かボロい安っぽい下士官クラブのダンスホールが選ばれたのは、自分の立場を日本にはっきりと思い知らせるためである。 ・・・つまり。その日に交わされた"日米安全保障条約"の条項がそのまま生きている限り。戦後占領軍支配はまだ・・終わっていないということだ。
我々はあのダンスホールで。ただ一人オドオドと佇む吉田茂と共に、今でも在るのだ。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました