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甲州ワインの謎#04/甲州種葡萄2000年の感傷旅行

畿内に統一王朝の原型が整い始めたのは紀元7世紀の半ばからでした。大宝律令完成は大宝元年AC701年。皇極天皇四年AC645年6月14日の乙巳の変から始まり半世紀かけた揺籃と策謀の大改革でした。大化の改新について書くと長くなるので此処では書かない。ただひとつだけ・・「日本」という呼び名がこの国の正式呼称になるのはこの時からだということにには触れたい。あとで日本という国名の成立話をするマクラだと思ってください。

爾来日本列島にある王朝は、何れもYAMATOだった。YAMATOは「古事記」では夜麻登/山跡と書く。「万葉集」では山常/也麻等/夜末等/夜万登/八間跡などと謡わる。「日本書紀」は、野麻登/椰麼等/夜麻苔、そして大和(おおわ)を以てYAMATOと書いています。
何れも音の漢字表記ですが大和(おおわ)だけは違う。何とも違和感を感じるのは僕だけではないでしょうね。
大化の改新をもたらした人々は、なぜわざわざ大和(おおわ」をYAMATOと読ませたのか?ここにひとつ甲州種葡萄2000年の感傷旅行に出かけるきっかけが有るように感じます。
では。古墳時代、朝鮮半島から日本へ入植した伽耶/百済/高句麗の人々が原朝鮮半島人だったかというと、これはあやしい。
日本書記にも「秦氏は百済から渡来した漢人」とあります。おそらく入植者の大半は"漢人とそれに随行してきた人々"だったと見るべきでしょう。ちなみに秦氏は「我らの始祖は秦の始皇帝の末裔」であると称しています。秦の始皇帝の母は胡姫でした。シルクロードを超えてやって来た女性だった。始皇帝自身も金髪碧眼だったという異説もあります。ともあれ日本国内で隠然と力を持っていた秦氏は、朝鮮半島人ではなく漢人でもなく西洋人の末裔だった・・と云うことです。
https://research-er.jp/articles/view/92963
前述しましたが、朝鮮半島に旧石器人はいませんでした。冬があまりにも厳しくて生存が不能だったからです。ヒトは北から降りてこられなかった・・なので朝鮮半島にヒトが入るのは南からでした。
まず、拡散した大汶口文化のひとつとして黄海を渡った人々がいた。そして南からやってきた原ポリネシア人(隼人)たちが彼らと共存した。この二つの流れが原朝鮮半島人の祖形なことは間違いありません。・・時代が下り、東北アジアに騎馬を能くする民族が台頭します。機動力を持っていた彼らは朝鮮半島を南下出来た。この北方遊牧騎馬民族の南下という、アジア史的な大変動の波が朝鮮半島にも流れ込んだわけです。

これを傍証するのは現朝鮮民族のミトコンドリアイブとy染色体アダムです。通常、両者は同民族内で対をなすのですが、朝鮮民族の場合ミトコンドリアイブは南方系であり、y染色体アダムは北方系なのです。つまり男たちで形成された北方のコンキスタドールたちが、朝鮮半島南部で生活していた一族を征服し、男どもを悉く殺戮し女たちを自分のものにした・・という歴史が垣間見えるのです。今世紀に入って、朝鮮半島各処に出来る王国は彼らの手によるものだった。

魏志に、万里の長城の苦役に耐え兼ねて逃亡した民が朝鮮半島へ逃れ、弁韓(のちの百済)に暮らしたという記述があります。これに「のち彼らは日本へ渡来した」と云う文言が続く。面白いですね。中国側にも日本への渡来を語る史料が存在しているのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました