見出し画像

甲州ワインの謎#16/番外・薬師如来と薬壷

では一歩下がって、薬師如来像がいつ薬壷をもつようになったか?薬師如来を治癒と誰が結び付けたのか?
木造としては醍醐寺の薬師如来本尊(913)が最古のもののようだ。同じく覚園寺/秋篠寺/妙光寺の薬師如来像も持つが薬壺を持つが、一見しても相関性は見いだせない、
・・実は、日本にある薬師如来像は意外と少ない。国宝14尊像、そして重要文化財に登録された尊像は264像である。うち木造が木造が91.2%銅造が6.4%鉄造は0.8%である。
この中で薬壷を持つ薬師如来像は約200像。書記に造像された薬師如来像は薬壷を持っていなかったのだが、を鎌倉時代以降に後補としてつけたものもある。9世紀以降になってつくられた薬師如来像には薬壷を持たせる例が多くなっている。
ちなみに、壁画として描かれた薬師如来像は、法隆寺金堂第10号に焼損した薬師浄土変相図だけだ。中国では敦煌莫高窟に薬師如来の壁画が多数あるが、壁画として本邦で描かれたものは、これ一つしかない。

では、実際にその薬壺の中に何か入っていたかというと・・入っていたのは周防国分寺薬師如来像の薬壷だけである。
したがって、実際に・・というよりはシンボル的な意味合いが強かったのではないか?僕はそう思ってしまう。
この周防国分寺薬師如来像薬壷の内蔵物調査だが、平成9年11月に行われている。金堂改築のため本尊薬師如来像を移転させたとき、薬師如来像の左手に安置されていた薬壷内に内蔵物があることがわかり、その内蔵物についての調査を行ったのだ。

周防国分寺は、天平13年(741)3月24日聖武天皇の勅願により建立されたと伝えられている。
創建当初の本尊は釈迦如来像であったが奈良時代後期か平安初期に薬師如来像に変わったと言われている。この像は室町時代の火災で失われ現在の薬師如来像になったと言う。
その薬師如来像が手にする薬壷の蓋と壷は約3 cmの木釘2本を用い2方向から頸部で止めてあり通常は開けられない。開けてみると蓋の裏および薬壷の内部は金箔が貼ってあり、裏に「修補了元禄十二(1699)巳卯戴十月十二日」と墨書がある。これはおそらく内蔵物を納めた年だろう。


薬壷内蔵物は一辺約30 cmのほぼ正方形の絹の布を折って作った三角布袋(30 cm×33 cm×41 cm)の中に総量220 g を入れて壷の中に納められていた。内容物は穀類5種(米/大麦/小麦/大豆/小豆)/生薬5種(石菖根/菖蒲根/丁子/人参/白檀)/鉱物(白水昌)6種。状態は良かった。
同寺に残っている伝承によると、慶長14年(1609)に、西大寺の高久が「豊心丹調合法」を周防国分寺へ伝えたという記録がある。
「豊心丹」は、奈良の西大寺で製して興正菩薩伝来の霊薬と称して販売されていたものだ。丁子,白檀,人参など15種を混合して作られるているものが多い。薬壷内蔵物との関連性が興味深い。
ちなみに、同年秋「諸国暴風雨により凶作となり,江戸の米穀不足につき,諸代官へ江戸廻米を命じた」と史書にある。おそらく豊作を祈願して、薬壺に穀類/生薬も一緒に詰められたのではないか?そう思ってしまう





無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました