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ご府外東京散歩#06/世間胸算用#02

そして、「カネとヒト」が地方での生産に集まるようになると・・当然のように商品の「差別化」が始まる。つまり、次々に「〇〇なら〇〇」という「売れる化」という経済原理が動いたのだ。山形の紅花や水戸の煙草などや、関東一円で盛んだった養蚕業。近畿地区の木綿や、近畿地方の種油。あるいは阿波の藍などなどである。こうした傾向は米の世界にもおよんだ。肥後米・尾州米・加州米などという銘品が生れたのである。こうした経済原理は、対応できる者と出来ない者の間に際立った格差をもたらす。農家の分解はさらに進んだ。富の偏析はさらに進んだ。
つまり単純化モデルとして捉えると、農家は「富める農家」と「貧しき農民」に分解した・・ということである。
余談だが、この二極化モデルは2000年代以降、団塊の世代を中核とする日本人中流社会が、年収300万円台へ落ちる世帯と年収1000万クラスへ上がる世帯に二極したことに酷似している。余談失礼
・・前者は他から労働力を買い大農となった。これに中央から「投資するだけの」農家が並列した。また武家からも生まれた。
後者は小作人、あるいは中央に流れて雇われ人、あるいは乞食になった。
よくモノの本に「江戸時代は農業技術が進化し、人口は安土桃山時代の3倍になった」と書かれるが・・・誰が3倍になったかはこれからだけでも判るだろう。ちなみに江戸時代の急激な人口増加は、後期になると減退し高齢社会化する。つまり「貧しき農民」が過飽和になった・・ということである。
さて。ここでは江戸に流れてきた「分解した農家」の人々をフォーカスしたい。
農家は原則的に長男が継ぐ。次男三男はあぶれ者になる。小作人として長男に傅くことになる。それを嫌った者は都会へ流れた。そして「口入れ屋」を通して、市内に仕事を求めた。もちろんそれだけではない。女子供も年期奉公という名目で村を追われた。殊に凶作飢饉の年は、こうした離散が酷く、食を求めて国元から逃げ出す者が多かった。しかし大半が路傍で死んでいくしかなかったのだが・・
その意味では、江戸は充分困窮する民の底支え出来る地として機能したわけである。
江戸には、常時日傭人足の需要(現在の非正規雇用者みたいなもの)があった。日傭座が成立しており、本人の努力によっては手に職をつけることも可能だった。江戸は「チャンスのある町」だったと云えよう。
荻生徂徠はこう書く。「農民も出替りの奉公人に来りて,直に留まりて日雇を取,ほてい(棒手)をふり、直に御城下の民となる者、日を追い年を追て夥しく云々」享保の頃から、農村より江戸に流入する者が多くなったと残している。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました