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東京島嶼まぼろし散歩#22/伊豆諸島02

朝早くホテルの周辺を散歩した後、朝食を済ませた。taxiのピックアップは11:00にしてもらったから少し部屋でのんびりできる。
「でも・・伊豆七島全人口10,000人に対して流刑者は男女合わせて200人?意外に少ないのね」と言った。
「そうでもない。江戸時代の通算で見ると・・新島は1333名、三宅島は約2300名、八丈島は約1865名であるとしている。流刑地先だった他の島を合わせると5000~6000人程度だろう。流刑に免罪はない。その島で残りの生涯を過ごす。流刑者の死亡報告が残っているが、多くが"腹中相煩死亡"だ」
「なにそれ?」
「腹に異物が詰まって死亡・・ということ」
「ということは・・食べられないものも食べた・・ということ?」
「ん。それ以外では海に落ちて死亡、首吊り入水などの自殺がある。流人の島抜けは極刑だったんだが、試みた人は多かった。
あまりの苦しさに島抜けする流人もいたそうだ。島抜けは捕まると島替えにされた」
「島替え?」
「もっと遠方のとっても生活できない島に移されたんだよ。しかしそう言いながらも"地獄の沙汰も"という話は一杯あった。
流人は、島に入ると「家持流人」と「小屋流人」に仕分けされた。前者は身分のある武士や公家、裕福な親類縁者だ。彼らは国許から差し入れがあった。だから家を借りたり生活も困らなかった。後者はそうはいかない。自分で作った掘っ立て小屋に寝起きしながら一年中空腹で暮らしたんだ。もちろん食物の支給はない。自分で確保しなければならない。海藻や山芋、アシタバ、シダや木の根なんかをたべたんだよ」
「だから"腹中相煩死亡"なのね」
「ん。なにしろ荒れ果てた地だ。畑が出来そうなところは島民が占有している。寒い冬をいつかは越えられなくて死んでしまうのが普通だった」
「現地の島民と争いはなかったの」
「もちろんあった。しかし島民が流刑者を殺してもお咎めはなかった」
「・・そう・・でも流刑者と一緒に暮らすなんて、島の人たちは嫌じゃなかったの?」
「快くはなかったろう。でも流刑の人々を受け入れることが暗黙の了解となって、さまざまな支援を島民は幕府から得たんだよ。
島民が生き残るために流民の受け入れは必要だったんだ。流民を受け入れているからこそも生活していけるという気持ちはあったと思うよ。・・たとえば八丈島には『施餓鬼』という風習があった。年に何回か畑の収穫が終わった時、一日だけ流人に開放する風習だ。流人たちに穫り残した芋や野菜を拾わせたんだ」
「そう・・そんなに困窮してたの」
「全島ではない。裕福ではないが生活できる程度の利益を交易から得ていた島もある。江戸時代も半ばになると廻船業者が台頭したという話をしたろ?伊豆諸島にも廻船業者が入ったんだ。彼らがあつかったのは、大島からは薪・苫織・干魚・鰹節、新島からは薪・干魚・鰹節、神津島からは薪・海苔、三宅島・利島・御蔵島からは薪、八丈島・八丈小島・青ヶ島からは八丈紬を買った。日本橋に『島問屋』と言うのがあったんだ。ここが伊豆諸島との交易を行うようになった・・ところがだな」
「ところが??でたわね、ところが・・」
「彼らは金ずくで島との交易を独占したんだ。島問屋は先ず島民に前貸し/貢の建て替え/漁不作時の貸付を快く請けた。その条件が独占権だった。あっという間に伊豆諸島は島問屋の独占物になっちまったんだ。
幕府はこれを嫌った」
・・話をしているうちにTAXIが来る時間になった。
ロビーへ降りていくと、昨日の運転手さんが待機していた。
「おはようございます。」運転手さんが言った「本日のご予定はいかがなさいますか?」
「先ずは為朝神社と赤門跡を訪ねたいです。
「承知しました」
「源為朝?頼朝じゃないの?」嫁さんが言った。
「頼朝は伊豆半島。為朝は伊豆大島へ流刑された。」
「源家は色々流刑されてるのね」
「色々じゃないけどな。・・されたな。為朝も平安末期の人だ。頼朝とは叔父関係にある。大男でな気性が荒かったという。それなんで、頼朝よりキツイ流刑を食らったんだろうな。
TAXIは元町へ向かった。為朝神社はホテル赤門の中にある。小さな質素な神社だ。
「でもそんな気性が激しい人が、黙って流刑されていないでしょ?」
「ん。すぐさま反乱を起こした。一時は伊豆七島の棟梁までいったが、それが中央に知れて討伐の院宣が下ったんだ。同年4月、為朝の監視役だった工藤茂光が伊東氏/北条氏/宇佐美氏と共に攻めた。嘉応2年(1170)だよ」
すぐ近くに為朝の住居跡が有った。これが赤門だった。
「・・でも、さっきの話。どうして幕府はどうして島問屋の独占を嫌ったの?」
「おそらく流刑地としての機能に支障が出ると思ったんだろうな。それとやはり田沼期の専売政策の一貫として、幕府の管理下に無い独占を嫌ったんだろうな。田沼の意思が強くあったことは間違いないと思う」
「田沼って、田沼意次?放漫経営が続いていた徳川幕府を立て直した人でしょ?」
「ん。そうだ。でも結局それが原因で失脚してるんだがな。田沼は、明和年間頃から八丈島荷物会所というのをはじめている。明和七年に出した通達に『八丈島・小島・青ヶ島共金銭通用無之場所=候得共、以来端物売払代金、我等役所ニ而相糺、嶋方之者共望之品々、布、木綿糸、綿二至迄相調遣シ、残金有之候ハゝ、米麦或ハ雑穀相調相渡、金銀銭八嶋方江遣申間敷旨被渡候」とある」
「へえ~そうなんですか?」運転手さんが言った。
「あ・すいません、観光な話じゃなくて・・いつもそうなんです。主人はどこ行っても観光には全然関心を示さないんです。歴史のことばかりなんです」嫁さんが言った。
「いえいえ、面白いです。耳をダンボにして聞いてました。どうぞどうぞ続けてください。でもその前に次はどちらへいらっしゃいますか? 」
「下高洞遺跡へおねがいします。
「かしこまりました。でもあそこは大半が埋め立てられて、看板以外は何もないですよ」
「でもぜひ訪ねたいので」
「かしこまりました」
下高洞遺跡は元町の南にある。為朝神社からは遠くない。
「・・で。田沼の命令で、八丈島・小島・青ヶ島は反物を代官所がすべて購入するようになった。そして天明期には八丈島荷物会所を設立している。幕府による専売特許を試みたんだ。しかし田沼意次が失脚したことで、この政策は失脚した」
田沼意次が処罰された時(明七年)に作られた二十六ヶ条の擬文 「田沼主殿頭殿江被仰渡之趣」の中に「八丈島産物之義は、多年問屋有之、年々前金差遣、所々にて数人渡世仕来、然処、此度上より新規御買上之御役所相立候、依之、是迄之問屋共より、差出置候前金、皆損亡に相成、家業に放れ、困窮に及候、其上以後は、御役人之働にて、定而長崎にて、唐船荷物買上同様に、下直に可相成事、如指掌中候、江戸問屋共之家業を御奪被遊候、惣而人々之家業を権威以奪候は、乱世之基可相成事」とある。
「田沼さん、よっぽど嫌われたんだな」
「あなたもね。偏屈すぎて皆に嫌われないようにね」
「・・はい。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました