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ボージョレーのこと・属州ローマからフランク王国へ/beaujoLais nOuVEauに秘められたLOVE#03


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ローマは、都市国家の連合体です。ある種、合衆国だった。地理的に云うとイタリア半島にある都市国家群の集合体がローマ帝国です。それ以外の所は属州でした。属州は兵役がない代わりに10%の属州税を課せられていました。それとローマは征服した土地を全て帝国のものとしていましたから、そこで生業を営む者は地代として、生産物の1/3を税として納めなければいけなかった。これはかなりの負担だったので、中央から離れれば離れるほど、属州の人々は強い不満をローマに抱いていました。ローマもそのことは重々理解していたので、重要な交易地点には多数のローマ人を送り込み「パクスロマーナ(ローマによる平和)」を維持する政策を取っていたのです。

イタリア半島の根元であるプロバンス地方も属州でした。そしてローヌ川を遡って、ソーヌ川周辺も、ローマ人とローマ帝国の管理下にあった。ちなみに属州はプロウィンキア(provincia)と云います。これがプロバンスの語源になっています。ブルゴーニュにロマネ村というところが有りますが、これも「ローマ人の村」という意味です。もっと北に行くとルーマニアに至りますが、これも「ローマ人の」という意味です。今でも東欧にはカトリックが多く、色濃くローマ文化が生きているのは、この2000年前のローマ帝国による統治の残滓だと云えましょう。

ローマ人と、先住民であるガリア人(ケルト人)の間に諍いは有ったもの、それなりにパワーバランスを保ちながら、ローヌ川/ソーヌ川を大動脈とする地域は、交易の地として安定を保っていました。それを破壊したのは、もっと東方にいたゲルマン人でした。ローマ帝国の勢いに陰りが出る頃、紀元300年ころから、ライン川以東にいたゲルマン諸族の侵攻と略奪が酷くなっていきます。


もともとゲルマン諸族は、農耕民族ではなく狩猟民族的だったので、自ら生産するというより、他者のものを奪って生活する人々だったので、彼らによる侵略・簒奪は昔から有ったのですが、パクスローマが弱くなると、それに呼応して頻繁にライン川を越えて侵略・簒奪行為が行われるようになったのです。その簒奪から権益を守るために、ローマは354年、ゲルマン諸族のうちフランク人と云われている集合体を傭兵として使うようになります。そして彼らにトクサンドリア(Toxandria)を与えます。現在のベルギーとオランダ辺りですね。しかしこれが原因となって、ローマはこの地区から始まって、最後はヨーロッパすべての属州をフランク人たちに奪われてしまったのです。


弱体化したローマは、400年代半ばに入るとガリアから撤収を始めます。そしてその後をフランク人が支配するようになりました。だからと云ってフランク人とローマ人の間が敵対関係にあったかというと、そうでもない。フランク人はローマの傭兵として、東からくる勢力、フン族や西ゴトー帝国と代理戦争を続けていたのです。しかしそれが結局、フランク人の勢力をつけるきっかけになってしまうのは、なんとも皮肉なことですね。


486年、フランク人諸族をクローヴィクスが統合します。彼は20歳でした。同時に今まで戦っていたゲルマン諸族も、彼は併合してしまいます。そしてフランス王国の基礎形を作り上げていくのです。こうして200年ほどで、あれほど強大だったローマは凋落し、ガリアの地・ヨーロッパを、フランク人の手に譲り渡してしまったのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました