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良き木には 佳き風通る 地蔵路地#02

良き木には 佳き風通る 地蔵路地

佃の人は住吉さんの氏子だけど、僕は元佃だったせいかな、ウチから幾つか先の路地の中にあったお地蔵さんのほうが近しく感じる。棒の先にガムつけて、よく賽銭箱の中を掻き回したしね、そんな意味でも子供たちにはご利益現らかたなもンでした。
だから我々夫婦に二人の娘を授かった時、安産を祈願してお参りした。孫が授かった時も安産と健やか育ちを願ってお参りをした。かみごとはとても大事なのです。
それで、末娘夫婦と我々二人そして孫二人で、孫たちの安産のお礼と順調な成長のご報告に伺った。
我が家からは佃大橋を渡ると、ベビーカーを押しながらも充分徒歩圏内で行ける距離だ。

佃天台子育地蔵というのがお名前だが、大人になるまでそんな漢字の羅列は読めなかった。僕らには「路地裏のおじぞ~さん」だ。
だからこれからも「おじぞ~さん」で通す。

賽銭箱の傍に置かれている「佃天台子育地蔵縁起」というの冊子を読むと。
江戸時代の中期に上野寛永寺の崇徳院宮法親王という方が地蔵菩薩を厚く信仰されておられて、自ら地蔵尊像を描き、これを江戸府内の寺院に賜り地蔵尊造立を促したとある。
ではその崇徳院宮法親王の地蔵尊像が鎮座されているのかと云うと・・そうでもないらしい。
上野にある浄名院という地蔵尊のお寺の第38世住職だった妙運比丘さんが建立したもののようだ。
ちょいと経歴を書くと・・
「浄名院第38世住職。名、幸啓。字、妙運。号、無庵。大阪出身。天台宗学匠慧澄を戒師として得度、その指導を受ける。25歳のとき日光山常観院にて地蔵尊信仰に触れ、1千体石地蔵建立の発願を立てる。地蔵比丘といわれる。明治9年(1876)浄名院第38世となる。明治12年(1879)1千体の願いが満ちると、インド中天竺阿育大王の8万4千体の法塔建立の故事に習い、石地蔵8万4千体建立の大誓願に進み、上は佛祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願する。これに呼応し、北白川宮能久親王殿下・徳川家・小松宮家・一条家・近衛家・毛利等各家の奉納があり、さらに各界の人の奉納が続いた。明治18年(1885)地蔵山総本尊を建立。85歳。」
その妙運比丘さんの大誓願である石地蔵8万4千体建立のひとつが此処に在るらしい。明言はされてない。

上野の浄名院に出かけると、妙運比丘さんの石地蔵が境内に所狭しと並んでおります。んんん。なるほどね。でもバラはバラ園のバラより、我が家に咲いた一輪のバラのほうが愛しい・・そう思いませんか?

「慈悲のあみ たれて救えよ地蔵尊 生死の海に しずむ我等を」
妙運比丘さんが詠まれた句です。

末娘夫婦と我々二人そして孫二人で元佃のお地蔵さんお参りの後、しばし佃と元佃を末娘夫婦連れ孫連れで散策した。
佃は、大震災/戦災の被害が少なかった地区だった。すぐそばに石川島の造船所が有ったからかもしれない。おそらく戦後の接収を意図して、大掛かりな殲滅作戦が組まれなかったのだろう。この辺りはカーチス・ルメイの魔手から逃れた地域でして、佃も月島も晴海も意外なほど戦火に晒されていないのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました