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小説日本国憲法4-4/ひらがな口語体の憲法

「憲法改正案要項」を「政府案」として条文化する作業の中心は法制局だった。入江局長官を中心にして佐藤局次長らが精魂込めて紡ぎ上げた。その過程で、佐藤らは最初からGHQと綿密な連携を図った。GHQ側の窓口はケーディス大佐だった。両者の打ち合わせは、合計四回。最後に行われた4月9日は5時間に及んだ。

佐藤らは松本の犯したミスを再度繰り返すつもりはなかった。「憲法は当事国が作るべきもの」という建て前論に拘れば、ではお前たちが受け入れた「無条件降伏」は何を意味するものなのか?理解しているのか?という論議に陥り、一歩も先へ進まなくなってしまう。「無条件降伏を受け入れたのは日本軍である。日本国ではない」という(松本的な法)理をGHQは受け入れない。そこで衝突すれば、何も形にならない。形にすることを是とするならば、粘り越しで交渉し摺り合せを繰り返す。これしかない。

佐藤らは弛まざる忍耐力で、この壁に立ち向かった。そしてそのネゴシェーションをケーディスが、がっぷり四つに組んで受けた。まさに横綱相撲だったのだ。

当時を回想して、佐藤は語っている。何しろ時間が無かった。だから自宅へ戻った後も、土蔵の中にある自分の書斎で、ちびた鉛筆を舐めながら政府案を書き綴った・・と。

その条文作成作業が後半に差し掛かった頃、法制局参事官・小田部佳英から「ひらがな口語体」の提案が出た。小田部は、まるで新聞を読むように読めることこそ新憲法に相応しい」と考えたのだ。入江はその案に賛同した。そして松本に法制局案として「ひらがな口語体として条文化する」という建議書を提出した。山本有三ら「国民の国語運動連盟」からの提案が出る直前のことである。松本は当初難色を示した。しかし暫くすると「ひらがな口語体」に賛意を示した。その経緯について、後日(前出1954.7/11自由党憲法調査会)松本は以下のように語っている。

「私の考えたのは、草案は如何にも翻訳調だ。そこでむしろ翻訳であるということを隠すためには、口語調でやったほうがかえってよいようだ、そんなことを閣議で言ったところ、意外にもみな賛成で採用されました。」

こうして4月17日。前文と百か条からなる「ひらがな口語体・憲法改正草案」が出来上がった。新聞各紙に発表されると、世論は騒然となった。松本の意図に反して、口語体で書かれた憲法草案は、むしろまったく翻訳文にしか見えなかったのだ。

この「憲法改正草案」はすぐに枢密院(貴族院)の諮詢に付された。

なぜ、当時すでに風前の灯だった枢密院なのか。実は帝国憲法第56条に「天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議」とあり、憲法を改正すると云うような重要案件については、枢密院で審議されることになっていたからだ。つまり、この時点では、まだ日本国は帝国憲法下に有ったのである。

審議のために、枢密院は13人から成る審査委員会が作られた。委員会は天皇陛下ご臨席の下、4月22日に第一回目が開催された。

会議は初日から揉めた。委員の一人である美濃部達吉が痛烈に正論を述べたからである。 
美濃部は言った。「枢密院を否定し無くそうとしている法案を、枢密院が制定するのは不可解である。」「民主国家を詠う憲法を、勅命により制定するのは虚偽である。」
しかし、出される結論が暗黙に決められている会議である。枢密院で審議するのは手続き上のことでしかない。美濃部の正論は当然のように無視された。

前述したが、松本はこの審査委員会についても、後日こう語った。
「4月22日から5月15日まで、枢密院の委員会が7回か8回開かれまして、その委員会におきましても、非常な攻撃を受けましたが、これはどうもむこうがこういうひどいことを言うのですから、仕方ありませんと正直に言った方がいいだろうと思って、そうしないと天皇の身体が保障されないということで仕方がなかったのだということ言いまして、みんな反対論を打ち切ってもらいました。」
こうして6月8日、「憲法改正草案」は枢密院本会議にて可決された。
そのとき顧問として参加されていた三笠宮が「新憲についてはだいたい賛成であるが、いかにも改正憲法は印象が薄く、内容、文章ともに、日本のものとしては受け取りにくい。採決については、本官は棄権したい」と述べている。

ちなみにこの枢密院会議の議長を務めた清水澄は、三ヵ月後の9月25日「自決ノ辞」を遺し楚国屈原に倣い憤死した。
曰く「戦争責任者トシテ今上天皇ノ退位ヲ主唱スル人アリ我国ノ将来ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪エズ併シ小生微力ニシテ此ガ対策ナシ依ッテ自決シ幽界ヨリ我国体ヲ護持シ今上天皇ノ御在位ヲ祈願セント欲ス」合掌。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました