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悠久のローヌ河を見つめて16/フランスが運河の国だということ

ローヌワインの北上を二つの要素が阻んでいた。
一つはロジスティックであり、もうひとつは荘園間の通行税である。
当時、パリへローヌのワインを運ぶには陸路での搬送しか方法が無かった。たしかに一部のワインはローヌ川を遡り城塞都市リヨンに集まってはいたが、これをさらに陸路にて遥か北のパリへ運ぶのは、現実的に相当至難な話だった。ソーヌ川を遡上すれば、そこはすぐにブルゴーニュ公国である。これを抜けてさらに北上するには相応の関税が必要となる。その上、陸路だ。どう考えてもコストが売価に見合わない。なのでよほどのコレ! というニーズが無い限り、ローヌワインの終着点はリヨンだった。

ローヌワインが普通にパリの貴族たちに飲まれるのは、ふたつの解決が為されてからである。
一つは運河の開通。ソーヌ川とロアール川を繋ぐ運河は、中央運河が1790年。そしてデジョン北からブルゴーニュ運河が1832年に開通している。これがワインの水運を可能にさせた。ロワール川は、既にブリアール運河によって1642年にセーヌ川と繋がっていたので、このルートでローヌワインもブルゴーニュワインも、比較的簡単に大量輸送されるようになったのである。

フランスは運河の国だ。無数の運河が1600年代半ばより建設され、現在でも国内を走る河川を縦横に繋いでいる国だ。広大な内陸部を持つフランスにとって、水路は極めて重要な搬路である。道路の整備が未発達だった時代には、大量の物資の輸送を陸路で行うのは困難だった。なので先ずはじめに水路の整備が国家的事業として起こされたのである。ブルボン朝以降の歴代フランス王は、挙ってフランス国内各地に運河を建設している。
ブリアール運河はその中でもっとも古い運河で、ヨーロッパにおける最初の山越えを果たした運河でもある。水位を調性するための水門は36基。全長は57km。セーヌ川のサン=マメスSaint-Mammesとソーヌ川のシャロン=シュル=ソーヌChalon-sur-Saoneを繋いでいる。

このブリアール運河の建設をした男が、シュリー公爵マクシミリアン・ド・ベチュヌMaximilien de Bethuneである。
現在でもフランス人が良く使う言葉
「牧畜と農耕はフランスを養う二つの乳房」
これを最初に言ったのは、このシュリー公だった。

当時フランスは原則的に荘園制で、各地方に領主が群雄割拠しており、それぞれが自分の領地で全てを賄う・・云ってみれば現代で云うポピュリズム的な経済構造だった。それを解体しブルボン王朝の絶対王制確立を目指したのがシュリー公である。彼は"統一フランス"を果たそうとしたのだ。
そのために大きな改革を矢継ぎ早に実行した。
先ずは言語的統一である。当時のフランスは荘園ごとに強い方言が有った。彼はこれを徹底的に排斥し、パリで使用されているフランス語を「共通語」として、全フランスに強要した。そして各主要都市間の道路整備を精力的に行った。同時に荘園間に有った関税を強制的に撤廃。荘園ごとに違う余剰穀物の交易を可能にさせた。また小作人農夫を守る法整備。そしてまだまだ未開のままで各地に残っていたガリアの森の開墾を奨励した。
立農国家/重商主義を旗頭に国家運営を為したのだ。

このシュリー公爵マクシミリアン・ド・ベチュヌの業績は、ワイン呑みにとって、極めて重要だ。
彼によって、ローヌワインの北上を阻んでいたもう二つの阻害要素。①ロジスティック②関税が解決の方向へ向かい始めたのである。長い間、主たるマーケットだったイタリア商業都市が大航海時代に乗り遅れ、凋落の一途を辿り始めていた時である。ローヌワインにとって、この新しいマーケットの登場は正に僥倖だったのだ。
こうして18世紀に入ると、ローヌワインは中央フランスでも比較的よく見かけるワインになって行った。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました