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ナダールと19世紀パリ#24/ティエールの虐殺

1871年5月21日、パリ側の内通者の手配でティエールの「正規軍」はパリへ突入した。戦いは凄惨を極めた。パリ市民側は女性子供老人も武器を持って戦いに挑んだ。武器と云っても非正規軍であり、たいしたものはなかった。それこそ自宅の包丁鋤鍬まで持ち出して戦ったのだ。一方制式武器を携えている正規軍は圧倒的に強い。彼らは見境なく市民を残虐に殺しまくった。コミューン側は怒りにまかせて人質にしていたカトリックの神父たち/パリ大司教を血祭りに上げた。
「血の週間」とも呼ばれる同胞/骨肉相食む惨劇のパリ市街戦は、5月27日ペール・ラシェーズ墓地の戦いで、国民軍が全滅することで終わる・・パリは正規軍の手に墜ちた、たった一週間で落ちたのだ。半死半生で生き残ったパリの人々は、呆然と悪鬼のごとく略奪暴虐に走る正規軍を見つめるだけになった、
・・血の粛清は終わらなかった。

ティエールはまず、戦いで死んだ市民の死体を持ち帰ることを禁じた。「我が子我が親我が妻我が夫の死体が市井に転がることは良い見せしめになる」彼はそう嘯いた。その言葉を受けて、正規兵たちは思うがままにパリ市民を殺し、その死体は街に放置したのである。街角に幾つもの死体が重なった。
その年の夏。パリは腐臭に満ちた。死体は雨に晒されカラスたちが啄ばんだ。
この粛清で殺された人の数は15000とも25000とも云われている。そして40000人の人々が逮捕され、簡易軍法会議で死刑流刑に処せられている。

では。パリ以外のフランス人たちは、このティオールの血の粛清をどう思っていたのだろうか?実は多くの人々がコミューンのパリ支配に反対し、ティオールと議会の行動を支持したのだ。「これらの狂人/社会にとって危険きわまりない狂人に対して/徹底的な罰を加えることは止むえない。としたのだ。とくに怒りにまかせてパリ大司教を処刑したことは轟々たる非難を受けた。すべての教会がパリコミューンを憎んだのだ。所詮は際立った指導者を持たないままの集団である。流されるままに進み、誰も結果を見つめない烏合の衆だったということである。

ついこの間までモンマルトルの丘の向こう・・分厚くパリを包囲していた帝政ドイツ軍は、ほくそ笑みながらその惨劇を見つめていたに違いない。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました