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葛西城東まぽろし散歩#01/大島01

嫁さんと二人で都営新宿線に乗った。行く先は東大島。都営線に乗ったのは、日本へ戻ってから初めてだった。
都営浅草線から乗り換えで地下通路を歩いているとき、嫁さんが「ここ、通ったことないわ」と言った。
「いやいや、何度もある。東銀座へ行くときはいつもここで乗り換えだった。
「東銀座へいくときは」というのは、竪川に住んでた頃の話で40年近い前の話だ。菊川駅から乗っていた。
・・考えてみると我が家の結婚生活は、三つ目通りを南下する人生だった。竪川で最初の所帯を持って二人の天使を授かり、三好町の木場公園の隣へ越して。それから木場だった。ほぼ20年でこのコースを辿った。子供たちが二人ともサンフランシスコの大学へ行くまでだ。
「竪川で所帯を持ったころは、まだ新宿線ができたての頃で湯気が出てたなぁ」僕が言うと、にべなく「出てないわよ」と切り返してきた。
・・実に面白くない奴なのだ。
「お前な、せっかくボケてんだから、なんか面白いこと言えよ。そんなこっちゃ立派なお笑い芸人にはなれないぞ」
「ならないわよ。だいたい漫才は嫌いなの」
んんんん。・・ま、いいや。
「でも菊川から乗っても、大島の方へ来たことはあまりなかったわね」
「ん?そうか?俺は、住吉に行くときはコイツを結構使ってたんだけどな」
「住吉?」
「ああ、駅から少し離れたところに3階建て古本屋が有った。あスこはよく行った」
「住吉って猿江公園のあるところね。お義母さんが好きでもよく子供たちを連れて行ったわ。でもいつもバスだったけど」
「バスか?横に走ってるバスはないはずだが・・」
「木場公園の親不孝通りを走ってる錦糸町行きのバス、あれで行ってたわ。でもあの通り、なんで親不孝通りというのかしら?あなたもお義母さんもそう言ってたけど、ほんとに親不孝通りという名前だったの? }
「あの道は、吉原遊廓と洲崎遊廓とを南北に結んでいたんだ、吉原の大門通りに繋がっていた。遊郭のハシゴする奴は、みんなあの道を通ったからさ」
「洲崎に遊郭が有ったの?」
「ん。あった。昭和33年に無くなったが、その後も片鱗はずっと残っていた。こんど、その面影を探りに行こう」
「・・あぁ、そう」とあまり乗り気ではない。
だから「洲崎パラダイス」のことも坂口安吾の話をしないままでいた。

「住吉を越えて、横十軒川の下をくぐると大島だ」
僕がそう言うと停車駅の駅名を見て言った。
「西大島よ。大島は次、あ・・その次が東大島だわ」
「西も東も何もかも大島だ。西だぁ東だぁってるのは、駅の都合。大島は大島。一丁目から九丁目まである。デカいから地下鉄の駅が三つあるだけだ。どうも駅名というのはよろしくない。時代考証を考えずに雰囲気で投げやりにつけたモノが多すぎる」
「あ・それ、東銀座駅のことを言いたいんでしょ?」
「ん・銀座は、銀座東・銀座西はあるが、東銀座・西銀座はない。勝手に東西の後ろから前にするのは不遜だ」
「不遜・・ねぇ」
ンな話をしていると、新宿線は地上へ出た。東大島駅である。
降りると嫁さんが大喜びしてる。
「ここ、正真正銘、始めてきたわぁ。なんか遠くまで来た!という感じ。・・団地がいっぱいで地方都市見たい」
「江東区のベッドタウンだ。6丁目の団地が出来たのは1971年、4丁目は1969年。北砂5丁目は1977年だ。もともとは農耕地だったところに明治大正と工場が林立したんだ。それが移転してね、その跡地が再開発されて団地になった。いまの大島地区の世帯数は35,000世帯以上だ。」
「・・ということは、6万人くらい?」
「おそらく・・もう少し多いだろうな」
「中央区の半分ぐらいの人が、ここに住んでいるの?」
「ということになる」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました