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LAST FRIGHT OF SAIGON#15/U-TAPAO

U-TAPAOの東に、充分徒歩圏内にWat Khlong Saiがあった。清楚な寺院だ。土地の以外は訪ねることはないところだった。特に上から下まで米軍管制の服を着た男が訪ねることは稀有だったと思う。言葉も通じない。しかし何回か近在を散策するときに寄っていたら、若い僧侶たちが僕のことを見知ってくれた。そして微笑みで迎えてくれるようになった。彼らは僕が注意される前に靴を脱いだことに驚いたようだ。きっと異邦人が祭壇の前で靴を脱ぐことは、今まで一度もなかったに違いない。そして出かけるたびに華やかな極彩色の祭壇の前にある灯篭に蝋燭を捧げた。そして逝ってしまった友の鎮魂を祈った。痛かったろう・苦しかったろうと思うといつも息苦しくなった。
何回か通っていると、若い僧侶が僕にプルクアンを笑いながら手渡してくれた。首からかける小さなお守りだった。このお守りは僕と一緒にNYCまで旅をした。
Wat Khlong Saiには広い庭園が有った。訪ねると僕は、いつもこの庭園で日陰の場所を求めてから、しばらくの間、読書した。和辻の「古寺巡礼(岩波版)」だった。
僕は巡業の時はいつも何冊かの岩波文庫をバックの中にいれるのだが、そのときの一冊がこれだったのだ。

U-TAPAOに入ったのは74年の冬休み、クリスマス直前だった。パーティが終わればすぐに飛行機に乗ってチャールスゴードンへ戻る予定だったが、色々あって僕ともう一人(ドラム)だけが、基地に残る羽目になったのだ。次の便がくるまで・・というつもりだったが、そのままズルズルと4か月も基地に残ることになってしまった。暇を持て余した僕は、オフィスに放置してあったマイコンを弄り、夜はEMでピアノを所在なく弾き、昼間は近在を散策した。

基地の傍にはラヨーンという町とレムチャバンという港が有ったが、知り合いが一緒でない限りは出かけなかった。とくにパタヤなんぞは近づきもしなかった。
一人ぼっちでいられるなら、書の杜と、マイコンを操って数の世界に入り込む方がはるかに楽しい・・そう思っていたからだ。その意味では、この長い冬休みを僕はソレなりに楽しんでいたのだと思う。
しかし、クリスマスを終えて75年の1月になると戦争の風雲は怪しげな様子になってきた。VCL(ベトナム共産党)の軍の動きが急に活発になってきたのだ。
ラジオは刻々と戦況を伝え、基地の兵士たちは集まればその話ばかりをした。たしかに地上軍は撤収した。しかし米兵そのものはまだ4万人程度はベトナムとその周辺に残っていたのだ。アメリカへ帰れるか帰れないか・・再度地上軍の投入が始まるか始まらないか・・兵隊たちの話題はそればかりだった。

1月6日、フォックビン陥落のニュースはリアルタイムで伝わってきた。基地全体が騒然とした。
「フォードが何を言い出すか?」全員が息を呑んでそれを待った。
フォードは沈黙したままだった。南ベトナム領地の省ひとつが丸のまま共産党軍の手に落ちたというのに・・彼からは、おざなりの声明しか出なかった。
そのTVに映るフォードの表情から、兵隊たちは「あ・ほんとうに終わるんだな」と・・実感した。
この時から、基地の基本低音は穏やかなものに替わった・・と僕は思う。
1975年3月1日、中部高原バンメトートで歴史的な衝突が起きたときも、シュレジンジャー国防長官は「戦況は拡大しない。本格的な戦いは76年に入ってからだろう」と発言した。兵隊たちは鼻で笑った。「つまりその頃にゃ、俺たちは誰もいないってことだ」
しかし共産軍がダナンの入るころになると、基地はまた緊張に溢れた。もしかすると・・サイゴンはとっても来年までもたないかもしれない。全員がそう思った。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました