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ご府外東京散歩#02/江戸は寒村ではなかった

家康ご入城の頃を「落穂集」はこう書く。
「郷村の百姓共の儀は、目も当られぬ有様にて、其所の名主、長百姓たりとも、家内に床をはり、畳を敷たる家とては一軒も無之、男女共に身に布子ぬのこと申物を着し、縄帯を致し、わらにて髪をたばねたる者許ばかりの様に有之候由、其時代の老人の物語を我等承りたる事に候」
「落穂集」は江戸初期に、大道寺友山重祐によって書かれた書である。江戸が寒村だったと書く。
「石川正西聞見集」にも、こうある。
「其比は江戸は遠山居城にていかにも麁相、町屋なども茅葺の家百軒計もあるかなしの躰、城も計にて、城のやうにも無之、あさましきを奇特に秀吉公御見立被成候とて諸人かんじ申候」と・・江戸城もボロボロだったと。
また「事跡合考(柏崎永以・書)」には、鳩谷下馬淵村の農夫の話として「御江戸の城御普請之始、当村及び此辺の百姓とも大勢参り、今東叡山下寺と申所の山際を掘りて、御城へ其土を担ひ運び候、一荷に付何十文と御極め被遊、一荷宛担ひ参候内、即座其賃銭下されしと申伝ふと、云々」とある。
江戸城修復と江戸湊干拓には、相当数の地域住民が駆り出されたようだ。
・・しかし、こうした資料を追ってると、どうも神君家康の御威光を強調するあまりに、実態を公平に記述していないような気がしてならない。まぁいつものようにカウンター資料がないからね。窺い知るのは中々ムズかしいンだが。
それにしても、御北条氏時代に江戸湊/武蔵野の地がそれほど荒れるに任されていたとは思えないのだ。

品川湊を見てみよう。
品川氏は大井氏の傍系だ。大井氏は律令後に中央から配属した一族らしい。それが土着して大井氏と名乗るようになった。始祖は実直という。死後、子らに分け与えられ、次男実春が大井氏を継いで、三男実清が大井郷の一部だった品川を領とし品川氏を名乗ったという。大井/品川両氏とも鎌倉幕府の御家人であり、いづれも源平の戦いに参戦している。
実はこの品川湊/目黒川河口だが、かなり早い時期から武蔵野平野への物質の集積地として利用されていた。これが鎌倉室町時代になると帆船/操船の進化によっていっそう栄えるようになっていたのである。その頃には、交易所が幾つも開かれ、商人たちが軒を並べるようになっていた。
これら湊を出入りする船には税がかけられていた。これも史料が残っている。帆一反につき銭三百文だったとある。永和4年(1378)8月、武蔵国の守護上杉憲春は、鎌倉の円覚寺仏月庵造営のため、これらの帆銭とは別に税を徴収するようにと守護代・長尾孫四郎景守に命じてという記録がある。寺社の一部が増設できるほどの実入りが有ったと言う訳だ。ちなみに、明徳3年(1392)1月から8月までに、江戸湊には30隻の船が出入りしたという史料も残っている。
当時、取扱い商品は"問"と呼ばれていた。つまり問を扱う商人"問屋"が常駐していたのだ。正祐・国阿弥・行本という三人の名前が"問屋"として残っている

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました