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LAST FRIGHT OF SAIGON#16/オぺーレション・ベビーリフト#02

4月3日、オベーレション・ベビーリフトの話をEMクラブのカウンターで聞いた。ベトナムの孤児を救うという話だ。僕は何とも舌触りの悪いものを感じた。アメリカ人らしい善意だ。この"らしさ”がどんな結果を生み出すのか?なんとも言えない印象を得た。

そして翌日の夕方、4時すぎだったろうか、第一便の空中爆発である。そのことはすぐさま基地中に知れ渡った。全員がラジオの前に釘付けになった。管制局からもすぐに詳細の報告が出た。
キャプテンはDennis "Bud" Traynor。機種はLockheed C-5A Galaxy/機体記号68-0218。乗客は幼児を含め311人。乗員は17名。
C-5Aは、万一の地上からの砲撃を避けるため急上昇したが、離陸数分後、突然機体後部で爆発。Traynor機長はすぐさま空港へ引き返そうとしたが操縦は不能。機長はとっさの判断で空港の近くの水田を視認。ここに不時着を試みた。

着地時のスピードはおよそ500km/h。C-5Aは後部車輪などを破壊してバウンド。一度態勢の立て直しを試みるが、そのまま不時着。機体はコックピット・機体中央部・後部・主翼に分裂しながら地面を滑走した。すぐさま消化隊救助隊が活動。生存者の救出に入った。乗客乗員328人中、155人が死亡。生存者は175人だった。胴体着陸時に、機体1階部にいた乗員は即死。2階部にいた者たちは助かった。コックピットにいたパイロットたちは奇跡的に全員生還した。
命をとりとめた。・・このニュースに基地スタッフは、朝まで聞き入った。
キャプテンDennis "Bud" Traynorのとっさの判断が全員死亡の惨事を防いだのである。

後日、ハドソン川に不時着した旅客機のnewsを聞いた時、パイロットが元米空軍出身であることを聞いて、なるほど緊急時には本領を発揮するなと納得した記憶がある。
オベーレション・ベビーリフトはこの後も続くが、こうした事故はこれが最初で最後だった。

その事件の数日後、最初のベトナム避難民を乗せたC-5AがU-TAPAOに到着した。このとき、はじめて僕はオペレーション・ベビーリフトと共にオペレーション・ニューライフという救済作戦が組まれていることを知った。続々と降りてくるベトナムの人々は係員の誘導で全員、居住地区の奥にあるホールへ案内されていった。人々は着の身着のままで手に持てるだけの荷物を下げていた。子供たちも持てるだけ荷物を持っていた。全員が焦燥と恐怖の表情だったことを今でも憶えている。

その夜、僕はU.S.O.の事務室に呼ばれた。
「明日、あの人たちが乗る輸送機が来る。グアムに飛ぶ便だ。一緒に乗るなら手配するぞ。」と言われた。グアムからなら毎日カテナかヨコタへの輸送機は飛んでいる。それに乗れば帰れる・・ということだ。
僕は逡巡した。
「もうこの便が最後になりますか? 」
「いや、これからは何度もくるだろう」
「でしたら、もう少し後の便にします」
「どうしてだ?いいのか?」と係官が不思議がった。
「物資部の手伝いをしてるんです」
「手伝い?・・ああ、計算機か?お前がセッティングしてるんだってな」係員が笑った。
「はい。アレの使い方のレクチャーが終わるまで居たいです。」
「OK」係官が肩をすくめた。
しかし、この時のチャンスを伸ばしたために、結局ヨコタに戻ったのは5月の半ばになってしまった。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました