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LAST FRIGHT OF SAIGON#17/オペレーション・フリークエント・ウィンド

4月27日からサイゴン市内へのロケット弾攻撃が本格化した。無差別攻撃だった。この攻撃で5000人の無辜の人々が死んでいる。人々は逃げまどった。しかし四方は共産党軍に囲まれていたので陸路での避難は不可能だった。パニックに襲われた人々は、アメリカ大使館の周囲へ。タンソンニャット空軍基地へ集まった。また港は小さなゴムボートやカヤックで海へ逃げる者で溢れかえった。"解放者"を標榜し"民の味方"である共産党が振るう死の斧に、人々は震え上がったのだ。
28日午後、アメリカ軍機であるはずのA-37が空港上空へ飛来。管制塔からの誰何を無視したのち、タンソンニャット空軍基地へ爆撃弾を投擲した。空港は大混乱に陥った。それは共産軍によって奪われた爆撃機だった。この爆撃でC-130が一機破壊された。
そのニュースはすぐさまU-TAPAOの我々の許にも届いた。
「僚友機が奪われ味方のふりして近づいて攻撃?!」全員に衝撃が走った。
総指揮を執っていたリチャード・T・ドゥルーリーGeneral Richard T. Drur将軍は、輸送機/爆撃機を国外へただちに移動するように指令。このとき空港に残っていたのはC-130は2機。ドゥルーリー将軍はこの2機に可能な限り空港周辺に集まっている住民を乗せるよう指示した。2機は夕闇の中を飛び立った。
この2機を以てオペレーション・ニューライフは停止した。
29日未明、UH-1ヘリコプター群がサイゴン市内に入った。密かに"Talon Vise"と呼ばれた作戦である。作戦総指揮はロイド・J・アンダースJr. Lloyd J Anders Jt.大佐。作戦は市内に潜伏する共産党ゲリラの妨害を避けるために徹底的に秘密裏に進められた。先ず10機のUH-1がタンソンヌットにあったDADとアメリカ大使館、タンソンニャット空軍基地へ降り立つ。そしてこのヘリコプターを目指して、あらかじめ待機していたトラックとバスが早朝のサイゴン市内を走りまわり、大量の市民を乗せて運ぶという作戦だった。
僕らはこの "Talon Vise"のことを知らなかった。しかしU-TAPAOの空を舞うUH-1が次々に避難民を運び、降ろすとそのまま再度飛び立っていくところを見て、サイゴン市民救済のための作戦が、ニューライフとは別に、ひそかに進められていたことを確信した。
我々は友を見捨てない!という意思の表明だと、感動した。
後にオペレーション・フリークエント・ウィンドOperationFREQUENT WINDと呼ばれるそれは、機動力の高いUH-1ヘリコプターを利用した避難民救済作戦だった。第56特殊作戦航空団と第40航空宇宙軍タイの救助回収隊で組成されたチームにアメリカ空軍のCH-53とHH-53ヘリコプター部隊が参加した。出動は公式には2日間で1422回。31,000人の避難民を運んだと記録に残っている。
しかし実際には、他の部隊もこの避難作戦に参加し、29日30日の二日間で5万人以上の人々をバンコク市内から避難させる大作戦になっていった。
作戦は4月30日の午前9時前に終了。正午過ぎ、サイゴン大統領官邸に北ベトナム政府の旗が掲げられた。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました