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猫田による猫田のための、らくがき。

このノートなんてもはやすべて、
らくがきみたいなものだよ。

誰かに見せるためだとか、
物書きになるためだとか、
誰かを笑顔にするためだとか、
何というか、
綺麗な目的をもって文章を書いているわけではない。

強いて言うなら実験のため訓練のため、
あることに対して今この瞬間の自分が、
何を考えるのだろうかっていう実験。
言語外のやり取りに甘えてばかりの自分が、
日本語で言葉にするための訓練。

とか言って自分を卑下してしまいがちになるけれど、
かすかにでも目的を持ってやってみること。
目的を持たずとも何かやってみることは、
多少あれど綺麗なことなのではなかろうか。

あるかもしれないないかもしれない、
そういう期待と不安でもって文字を並べている。
今この時もなお。

だけども日本語表現が上達した兆しはあまりない。
むしろひとと話をするのは以前よりも、
ずっと苦手になってしまったんじゃないか。
じゃあいったい何のために日本語を、
ここまで並べてきたというのだろうか。

そもそも好き勝手日本語を並べることに、
何かしら効果を期待していたこと自体、
的外れで勘違いも甚だしいことだったんじゃないか。

誰に聞いても明確な答えが帰ってこない。
というより証明が出来ない。
そういう疑問を抱く時は定期的に訪れて、
真っ黒な霧のなかに半身はまりこんだ心地がする。

中途半端。
ちゅうぶらりん。
どっち付かず。

幸せな方向のそれは問題ない。
良くないものに半身浸かって、
毒気の濃度が変化する。
波に揉まれて酔うみたいに、
胃の真ん中からぐらぐらする。

それでも悪い方に一歩踏み出して、
違いないって思い込んで深海に沈んで、
しゃがみこんで全身をを霧で覆って、
ということをしないで済んでいるのは、
お友だちにそれぞれに尽くしてもらった、
日本語のおかげに違いない。

ひとの言葉は必ずしも信頼できるものではない。
ではないけれどその人が言葉を発したことは紛れもなく、
私のもとへ事実としてやってくる。

それに発された言葉には発された言葉以上に、
いろんな情報が付いてくるものなので、
なにも話されないよりもなにか話してもらった方が、
相手にとっての事実についての信憑性も増すというものだ。

だから消化器官の半分が毒されてしまっても、
お友だちの言葉に必死ですがり付いていられる。
絶対に放すまいと諦めないでいられる。
いられるのです。

らくがきをするっていうことは、
何かしら目的はあるということだ。
良いことにしても良くないことにしても。

そして行動に起こしている時点で、
世界のどこかに変化が起きていて、
もしかしたら誰かに影響を与える可能性が生まれている。
というところまでは確からしいことだ。

自分にすら大した変化を与えられていないのに、
ひとに対してなんて無謀なことだと思うけれど。
できれば悪くない影響であればいい。
良いものであるのなおさら良い。

そう願っているように振る舞って、
信じるみたいな感じを出して、
これ以上はなにもない。

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