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自分のエモを遡ること、問いを問い直すこと。

まだ春になりきれていない、4月中旬のこんな夜更けに、冷たいお茶をグラスにいっぱい注いで、それを一気に飲み干してしまったのだから、この時間の空気を寒いと感じてしまうのは、完全に自分のせい。


さて、この4月で、うちのゼミが札幌市立大学に爆誕してから2年半が経とうとしている。もうそんなに経つのかと、時代の流れの速さと、わたしの感覚の鈍化が気になるところだけれど。

その時のドキュメントやnoteを今でも振り返ることが多い。例えば、プレゼミの公開活動報告会のnoteだったり、

石山での活動のnoteだったり、

思えば、節目で書かねば、という念にかられ続けていると思うのだが、なんとなく、書くなら今だ、という動物的な勘が働いているようにも思える。

書かねば残らぬもの・ことがあり、書かねばわからぬ景色がある気がしてならない。でも、書くだけじゃ足りなくて、そこに描かれた景色が見える形で伝わらなければ、それは本当に勿体無い。

そんなことも、そういえばnoteに書いたんだったな…。

繰り返すことで、わかることが増えていくのが、また面白く、これが実践の醍醐味に感じる。自分で書いたものを見ても、やっぱりそう思う。


でも、それをやって、面白いな〜と思った最初の出来事は、きっと、特集号の京都MTGだったと思う。いまだにJ-Stageのリンクをお気に入りにして、わかりやすいところに置いてある。

この時は、本当にわからなくて、何を話しているのか。わかろうとすることに精一杯だったけど、手元のMacbookで、「こんな時に、こう思って、これってすごいな〜」って話している人が今まで書いたデザイン学会の梗概を漁ってみたり、そうすることで、この人たちが、何をみて、何を語ろうとしているのかを、必死に追いかけることができた。

しかし、その時取ったノートを見ても、さっぱり!わからん!!話の繋がりが曖昧で、誰がどういう趣旨でこの言葉が出てきたのか、話を聞いていた私しかわからん!!!どういうことだ!!!!

と思ったので、ノートを書き改めたのです。iPadで無限に広がるキャンバスに書き殴り始めたノートは、なんとご丁寧に、後から綺麗に移動ができるのです。そうすることで、私が手にしていた文字情報・図の情報+私が覚えていた景色・情感を整理しながらまとめることができた。結果としては、何たる大きさのノートたるや…という感じだったけれども。

でも、整理する、といっても、その場で、私の中で整理していたこともあった。今でも言っているのだが、実践をドキュメントなどで残す時に「残り香」が出てくるよね、ということだ。たくさんの実践をしてきた人びとが、実践の残し方を語っている時に、どうやら残り香がするものがいいんじゃないの?と私が思って、そのままノートに書いたのだ。

京都MTGのその場でミカワが取ったノート(一部)

情感とか、景色とかが、実践の記述の端々に描かれることで、その現場で起きていたことを、最大限想い出せる・想起させられる状態で残すことができるのではないのかな、と思っているので、こんなnoteも出てくるわけだ…。


さて(二回目)、こないだ、今度のデザイン学会に出す概要集を書いた。そのタイトルを「問いを問い直す、語らう道具のデザイン実践」とした。久しぶりにしっくりくるタイトルだ…。

そんな私が、やっぱり思うことは、現場に入り込んでわかったこと・わかろうとしたことを、複雑なままに理解できるかたちで残し、それを肴にみんなが語り始められる場をつくることが、デザインという営みをはじめる一つのきっかけになるはずだということ。

思い出せば、石山に行ったときの省察から、みんなが見ている石山を知り、語らい、何ができるだろうと考えることができたし、

2019年秋・札幌市立大学にて、EVホールの壁に広がった知の総合格闘技

私たちがわかろうとしたことを、そのまま伝える場をつくることで、新しい仲間が増えたりもしたし、

2020年晩冬・札幌市立大学にて、プレゼミ発表会

そこから広がるデザインの現場はたくさんある!ありすぎる!!

2021年夏・札幌市南区石山にて、盆栽クラブ首脳陣と共に
2021年秋・滋賀県仰木にて、社会実践デザインラボの一同

そして、現場がなくなると、デザインの活動は、ハリ・ツヤを失うこともわかっている。


いま、わたしの周りにあって、手に取れて、わたしを構成しているもの、それらどれもを愛おしく、大切にしたいと思って毎日生きている中で、何がデザインの対象になるかは、わからない。わからないけど、結局、デザインの対象にならないことは、ひとつもない気がする。

だから、私たちはきっと、誰もが、デザイン活動を繰り広げる自らで語れる何かを持っている。語らう道具と名づいているもの以外にも、残り香のようなものも携えているはず。

そういうものをわかるかたちで携えられるようになるには、わからない、をわかろうとすることが大事なんじゃないかな、と思う。これが、問いを問い直す、ということだと思う。

そんな、私がきっと大事にしているであろう、問いを問い直す=わからないに向き合い続けることのエッセンスが、前述の今度のデザイン学会に出す梗概のボツ文章まとめにあったので、ここで供養しておく。

なぜ「わからない」に向き合うのか
 今日の社会には、様々な社会問題が横たわっている。それらは、よく定義できるものが多い。こうした環境下において一つの問いが生まれた時、問いをよく定義しようとし、それによって問いという課題の解決方法をわかろうとする。これが、従来の定型的デザインアプローチであった。
 しかし、環境、経済、ジェンダー、健康などの諸問題が相互に連関し、様々な人びとによる営みが社会を構成している現在、全ての問いがよく定義できるとは限らない。複雑なものを複雑なままに受け入れていく社会に変容していく中で、自分でよく咀嚼できない問いが生まれた時、人びとはその「わからない」に向き合わなければならない。その時、デザインする人、ものづくりする人には、何ができるのか、という問いが私たちに向けられている。
 そして筆者は、本稿で扱う実践を通して、社会の変化に適応しながら職業的にデザインやアートを実践してきた専門家の知恵と技を見て・聞いて・学び、専門家らと共同した。その共同を通じて、筆者はまだ向き合えていなかった「わからない」を、共同者の語りと振る舞いによって鏡像的に知ることができた。それを筆者の理解を通すことで、他者に伝えられる可能性があるのではないかと考えている。実践者たちとの共同を通じた学びを他者に伝える活動が、筆者にとっての実践となる。
これらの実践者たちの知の伝搬は、自分でよく咀嚼できない問いに向き合い始めた人びとにとって、自らの実践の現場と照らして、自らの問いに向き合えるきっかけになるかもしれない。そうした新たな知への兆しを捉えていたことが、筆者の一連のデザイン活動の原動力となっていたと考える。
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 デザインを教育プログラムで学ぼうとしたとき、学ぶ側(若者)の視点では、どんな領域で、どういうことをするのか、すなわち学びの目的地が見えなければ、暗中模索を迫られる気持ちになる。それに対して、教える側(大人)は目的を達成するための手段を教えることになるが、いつからか手段が目的化してしまっている。つまり、手段を再現できるような実践プログラムを組み立ててしまったことで、それに取り組むこと自体が目的化してしまっている。果たして、その手段の成り立ちをわからないままに、若者たちがデザインを学ぼうとしていることを、実践と呼べるのだろうか。

2022春季デザイン学会 発表予定 梗概のボツ文章ストックより


この世界には、わからないことがたくさんある。でも、全部をわかろうとすることは、本当は面白くないはず。だからこそ、自分のわかるを追い求めて、わからない=問いを問い直すことに向き合うことが、本当に面白いことなんじゃないかな、と思うわけであり、それを誰かと共同して取り組めるのが、デザイナーの知の働きであって、デザイナーの血が騒ぐんじゃないのかな、と。

だから、わたしは基本的に、誰かのわからないに寄り添って、私がわかろうとすることで、誰かのわからないがくっきり見えてくる、その瞬間が好きなんだよな〜ということかもしれない。

ということで、誰かのわからないに嗅覚を向かせて、活動していくことが、私にとってのおもしろなんじゃないかな、と思うわけです。


そんな感じで、つらつらといろんなものを漁りながら書いてたら、コップの中のお茶もすっかりぬるくなってしまったので、今日はこんなところにしておきましょう。

こういう風に、わたしの目の前にあることを、そういえば〜的に書いてしまうのが、やっぱりわたしの性ってところなんでしょうね。

(タイトルは、わたしのnoteっぽく、キャッチーかつ繰り返し系表現にしました。う〜〜ん商業的。)

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