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くう、ねることと、meets me。

とても遅ればせながら、2021年の春に行いました札幌市立大学の卒展について。

なんというか、こういうパブリックな場での発信を私自身がしないことになるべく努めた(挨拶文とかそういうのは除いて)のですが、もうそろそろ良い時期かな、と思いまして。


というのも、noteの下書きをみていたら、挨拶文の元となる物が出てきたので…。

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2019年の年末に書いていた下書きから、挨拶文だったり、meets meという言葉だったりにつながっていたわけです。


その下書きは、次のようなものです。

デザインは毎日の暮らしにとても密接にあります。
言うなれば、生きることすらデザインです。

元来、人は「くう、ねるところ、すむところ」を大切にしてきました。
おいしいものを食べて幸せになり、寝ることで明日への希望を募らせる。
それには安心して暮らすことのできる、住むところが必要になる。
そういった原初的な人のモノ・コトに注目したいと考えています。

そして、デザイナーにこれから求められることは、「はなす」ことです。
一般では、いわゆる「デザインの言語化」と一言で片づけられがちです。
ただ、自分が思っていることを伝えられなければ、生きることはできない。
生きて、みんなと「はなす」ことで、未来が見えてくる。
デザインを通して「はなす」ことを大切にしたいと考えています。

生きることは「くう」「ねる」「すむ」からはじまる。
みんなと「はなす」ことで、未来を生きる。


「はなす」こと、にも注目していたこの頃の私でしたが、それ以上に、私たちが暮らすこの世の中に立ち込めていた不安定さに注目せざるを得ない状況になりました。


ひとつ。不安定さの中で日々を過ごしている、私たちはそんな日々を過ごしていると書いたことについて。それは、私の本心であるとともに、私の弱いところであったこと。これまで暮らしてきた日常と違う世界なんて、たくさん出会ってきたけれど、その度にひどく落ち込んだり、寝込んだりした。

明日には違う世界があるかもしれない、という言葉に不安定さは感じるけれど、それが新しい地平へとつながっているかもしれない。その可能性を、この時の私は「デザイン」という言葉に期待し、気持ちを乗せていたのかもしれない。


さて、「はなす」という言葉について迫りたいと思います。はなすというのは、会話するとか、スピーチするとか、口頭伝授のような意味もあれば、開け放つとか、持っているものを離すとかの、開放の意味もあります。デザイナーはこれをしていないんじゃないかと、この時の私は思っていたんですね。

例えば、デザイナーは出来上がったものについて説明することが苦手かもしれません。レシピのような制作段階のステップは教えてくれても、夜空を見ながら飲んだワインのラベルがかっこよかったからインスピレーションを受けたとか、そうしたストーリーは何故か語ろうとしない。(人が多いというだけだと思いますが…。)

これは、単純に話さないというのもあれば、着想という自分のうちにあるものを開け放とうとしていないのもあると思います。なぜはなさないのか、理由は様々あると思いますが、これを残さないのはもったいないです。


たとえ、創り上げたものが素晴らしくても、そのプロセスが見えてこないと、創られたものから見えるものが減ってしまいます。ただし、プロセスを見せないことで、創り上げたものの幻想を成り立たせようとしている場合を除いてです。

見えるもの、という言葉を分解すると、創られたものを見る人の視覚情報と、そこから想起されるものやこと、創り手の思いやりや、そこで吹いている風など、様々なものがあるはずです。これを、プロセスを伝えることによって、感じ取りやすくさせる、と言えば幾分か多くの人に伝わるでしょうか、、、


そんな意図や思いがあって、「はなすこと」をフレーズとして入れていました。

しかしながら、人と触れる、ものと触れる、対話する、会話することが高い壁の向こう側に追いやられることになってしまいました。


meets me. 私たちは、何と出会えたのか、何に出逢わせてくれたのか、何を見つけられたのだろうか。

その壁によって、私たちに起きた変化は、決してマイナスだけではないはずであって、それによって何と出会えたのか、それをわかろうとしたのが、meets me. の狙いでした。


例えば、ステイホームな暮らしで、家にいる時間が増えて、日々の暮らしのちょっとした隙間にある癒しスポットを見つけたとか、直接デザインに結びつくことはないかもしれないけど、出会えたものは多かったのではないでしょうか。

「くう、ねるところ、すむところ」という言葉。寿限無に出てくるフレーズです。これほど日本人が食う寝るところ住むところに密着していた時間、時代があったでしょうか。少なくとも近代日本では一番密着しているのではないかと思います。こうした原初的な営みに密着しているのにも関わらず、リモートという技術によって、誰かと繋がっている感を常に感じてしまう。もったいない。

そんな気づきもmeets me.だと私は思っています。


明確にメッセージとして発信した内容は、あまり長くなく、詳しくなく、抽象度の高いものでしたが、色々なグラウンドが地続きで、複雑に交錯して、私たちがデザインと言っているものが成り立っていることも言いたかったし、このnoteに書いたようなことも言いたかったけど、そこまで言いすぎると、卒業研究の成果にフォーカスされなくなるので、削ぎ落とした感じでした。

でも、メッセージとして発信した内容が、コロナ禍だからこれを書いた、とは思わないで欲しいな、と思って今回このnoteを書いています。確かに、社会の事情を汲み取った文意になっているのは事実として、でも本筋で言いたいことは、以前から思っていたことです。


最後に、社会の事情を大いに汲み取らなきゃいけなかった場面と、大学の決定を長きに渡って待ち続ける場面とが非常に多く、縦割りのお陰で急な決定事項に振り回されたりもして、もどかしい限りでしたが、卒業記念事業として様々な場面で多くの皆さんにご協力いただいた御恩に感謝するとともに、最後までともに事業を支え続けていただいたスタッフ・関係者のに皆様に厚く御礼を申し上げます。

(まあ、私たち卒業式してないので、卒業してないかもしれないんですけど、、、)(卒業式は中止なのに、入学式は普通にやるんだねぇ、、、)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。 皆さんから頂く「スキ」とか、コメントとかがとてもうれしいです。 なんだかもう少し頑張って生きることができそうです。 いただいたサポートは、毎日わたしが生きやすい世界になるために使います。 これからも、どうぞよろしくおねがいします。