雑記:20200915 「どうせ」の話

   たまにお菓子の袋を見つめているだけで涙が出る事がある。それはゲームソフトのパッケージでもあったし、ある日は弟のTシャツにプリントされていたキャラクターでもあった。情緒不安定、と言ってしまえばそれだけだろう。私がそれを否定することは無い。事実私の情緒は安定しているとは言い難く、とくに最近はズタボロと言ってしまっても良い。ただ何か、それとは別の要因が紛れているような気もするのだ。さて、こんな意味の無いことを考えたにも訳がある。私はTwitterでしょうもない事をするのが好きだ。他人にメンションして自分を紹介してもらうためのハッシュタグで自分のIDにメンションを飛ばしまくり引用リツイートをするという奇行に出た私は、ウケるのを確信すると共にどこか「一線を超えた」ような感覚を覚えていた。そしてそれは半分程正解で、想定通りの反応が4割、残りがそこそこ真面目な心配と憐れみを占める……まあ芸人であれば大スベリといったところだった。もう半分の不正解は「ウケる」確信だった。いや、普通に考えればそりゃあそうだ。私とてもしそれを見たら「大丈夫かな」と心配になるだろうし、あるいは少し哀しく感じもするかもしれない。という訳で私が議長を務める私大反省会を開いていた訳だが、目に止まったツイートに「本当に辛い時には頼れる人を作った方が良い」という旨のものがあった。いや本当に大正論で、ここまで心配されているのでもはやネタとしては大失敗と言って差し支えない。でもウケなかった事は正直なところどうでも良かった。実の所、最も気になったのは普段ツイートを適当に要約して読んでいる私にしては珍しくツイートの内容自体で……私に私が本当に辛い時に頼れる人などという都合の良い幻想は存在しないのだ。私の自認しているところに――あるいは多くの人々は案外そんなものなのかもしれないが――、頼れる程仲良くなれる人間は私には作れないという諦めの部分がある。いや、面倒だ。何がといえば、余程好いている人間以外からの本当に重く暗い愚痴の吐き出しがだ。そして私は少なくとも、私の考えている定義内の「余程好いている人間」にはなれない。……話がズレてしまった。冒頭の事で何が言いたかったかと言うと、先のツイートを見た時に抱いた感情と冒頭のシチュエーションで抱いた感情は酷似していたのだ。そうだ、空いたお菓子の袋を見たのは思い返せば家族にどうしようもなく怒られていた時だったような気がする。ゲームのし過ぎで怒られていた時だったような気もする。……おっと、書いていて気づいたが別に結論になっていない。考えよう。もしかしたら、もしかしたらだが「どうせ」かもしれない。拗ねたような、諦めたような。……どうせ考えても無駄なので考えることを止めることにした。

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