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愛してその蒼を知る no1 8・17

 チーズの滝を私たちは見つめている。沈黙に溺れそうだった。テラサキがはあとため息をついたとき、私は耐えられなくなった。チーズにからめた蒸しジャガイモを口に入れた。私とテラサキの間にはチーズフォンデュで使う小さな鍋があって、まだチーズがたっぷりと残っている。
 テラサキは転勤でこの街に来た。私はテラサキの知人ではあったけれど、親しい仲ではない。私にとっても彼女にとっても、互いは人脈のひとつでしかなかった。だから、ここらへんのおいしいお店を教えてよ、と五年ぶりに連絡があったときはとても気をつかった。おしゃれなお店がいいな。でも堅苦しくなくて、ランチが食べられるような。ここまではよかった。そういえば、テラサキってチーズが好きだったような。と昔の記憶が蘇ったとき、チーズフォンデュ専門店を推してしまった自分を今は殴りたい。チーズフォンデュなんて、話が弾むから面白いのだ。親しくない相手とのチーズフォンデュは時間がありあまりすぎて、話題に困る。
「そういえば、史記はどうしているの?」と私はテラサキに尋ねる。ああ、史記ね。と彼女は眉を寄せた。彼の話題は私にとって最終手段だった。あまり楽しい話でないことが分かっていた。
「チアキと史記は部活の繋がりだったっけ」
「そうだよ」
「この前、新幹線で偶然会ったんでしょう。あいつから聞いた」
「その時に、テラサキと結婚するとかしないとかいう話をしたからさ、結局どうなったのかなって」お酒抜きで昼間からする話でもないよね。と私は苦笑いする。お酒が入っていても、この話にはならなかっただろうけれど。
「結婚なんてするわけないでしょ」
 テラサキはさらっと答えた。私はどういうことかわからないという顔をする。彼女はまた大きくため息をついて、ルイボスティーを一口飲んだ。
「史記になにを聞いたかしらないけど、あんな何もできない男と結婚なんて、だれがするのよ。同棲を始めた時だって、私ずっと、毎日よ、あいつのだらしなさに怒鳴りたくなるのをこらえて生活していたの。私の家なのに、まったく落ち着けなかった」
「確かに、あれはだらしがない男だね」それは高校時代から変わらない史記の性格だった。軽音部でいくら緩い部活だからといって、通常の部活に参加したことは一度もなかった。それなのに発表会となると、どこかのスタジオでこっそり練習していたのだろう同じくさぼり魔の同級生数名と舞台にあがって完璧なライブをやってのける。強制されることはやりたくないという彼の思想は沁みついたものだから、外圧ではどうにもならないのだろう。
「私は、あんなのに振り回されるのが本当にいやなの。人生を邪魔されるのが、積み上げたものを揺るがす要素があると、不安になる。それに史記はいくら言っても職についてくれなくて、ずうっと私がお小遣いをあげてるのよ」
「そんな話は聞いてなかったな。ひもじゃん」
「だからこの転勤を機に、ね。追い出したの。もう新しい彼もいるし、引きずってはないけどさ、あんまり楽しい話じゃないわ」テラサキは思い出したくもない、という風に手をひらひらさせた。
 そっか、それならよかったよ。私はそう言って、笑った。それから別れて、帰宅した。テラサキが住んでいるのは隣街で、決して近所ではなかった。

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