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空間に現れた音の形は神聖幾何学だった|Soul Speaks まる裸な霊的体験①


臨死体験の書に出会って

私の認識能力は、大きく拡大していた。宇宙全体を包み込むほどの大きさに感じられるほどだった。
雑音交じりにラジオから流れてくる曲を聞いたことがあるだろうか。雑音にはそのうち慣れてくるが、だれかがチャンネルを調整すると、途端に曲が鮮明に聞こえるようになる。あれほど曖昧な、実物とは似ても似つかない曲を聞いていたことがなぜわからなかったのか、とその時になって初めて思わされるのだ。
「プルーフ・オブ・ヘヴン」エベン・アレグザンダー箸の P125より。

私は驚いた。
まさにそうなのだ。

アレグザンダー氏が描いている臨死体験の世界が、あまりにも私の霊的体験と似通っていたからだ。

アレグザンダー氏はアメリカのエリート脳神経外科医だったが、ある日脳が病原菌に侵される奇病によって大脳皮質の機能を失ってしまう。その昏睡のなかで7日間の臨死体験する。その時に霊的世界の驚くべき叡智を知ることになる。

読み進めるほどに鳥肌が立つのは、この本には、その体験が何なのかが書かれていたからだった。

自然的啓示だった?

14歳の時から今日までずっと続いている霊的な体験は、あまりにも自然発生的に起きては過ぎ去っていく。

その瞬間には、その体験そのものになり、自我があとかたもなく消え去ってしまう。それ故、それを自分で判断することができず、また誰かが教えてくれることも無かった。

最近になって、80代のマスターが、「それはあなたの神と出会う体験で、形而上学では自然的啓示というのだ。とても幸運な人生を歩んできたね」と、初めて教えてくれた。やっと真実を教えてくれるマスターに出会えた。

私はまさか自分が神と出会っているとは思わなかったが、徐々にそうだったのかもしれないと思い始めた。

そしてプルーフ・オブ・ヘブンを読みながら、それは確信に変わった。

変な確信の仕方だけれども、アレグザンダー氏が語る体験、他の臨死体験者が語る体験は、レアな体験として本になるくらいのものなのだと、初めて自分の体験を客観的に判断することが出来たのだった。

読みすすめるほどに、今まで通り過ぎた一つ一つの霊的次元が、臨死で体験する次元と似通っていることに気が付いた。そして、行間から伝わってくるエネルギーが同じだと感じた。

そのうちの一つが、「途端に曲が鮮明に聞こえるようになる。」と書かれた表現だった。

音の形が浮かび上がった

それは25年ほど前のことだ。ヨガの合宿中に、広い洞窟の中で沢山の人と声明を唱えていた時のことだった。

閉ざされた広大な空間で声明を唱えると、反響した声が重なりハーモニクス(倍音)が生じる。その倍音に包まれると、心が落ち着き、深い瞑想状態になる。

その時私は、広い洞窟内全体を見渡せる、最上部の岩の上に座っていた。真夏なのに、洞窟の奥は寒いくらいだった。

私は空間に共鳴する声明のバイブレーションを感じながら、洞窟全体を見下ろしながらぼんやりと音を聞いていた。

ところどころ蝋燭で照らされていはいたが、空間全体は薄暗く不気味だった。普段は使われていない洞窟なので、人間の手が入っていないワイルドな雰囲気があった。

人々が唱える母音が重なり、フルートのような高倍音がきこえてくる。そして時には、地を這う様な重低音が響く。

自分が発する声明に倍音が混じる。喉や口内の形状を変えることで、倍音の音程が変化する。沢山の声に溶け込むと、ホーミーも簡単にできてしまう。

身体全体が音を発する楽器になったようだった。そして時々声明をやめて、音が体を満たしていく内なる沈黙を味わっていた。

すると突然、目の前の何もない洞窟の空間が弾けた。

目の前に音が見えた。

それはまさに、アレグザンダー氏の体験と同じ現象だった。

3D絵本を見たことがあるだろうか?
最初はただの点の集合にしか見えないページに、あるポイントに焦点をずらすしたとたんに、文字や形が浮かび上がるのだ。

洞窟空間ではまさにその現象が起きていた。
空間をランダムに満たしていた音の粒が、突然に形として目の前に出現した。

最初はオーブのような丸い音が、様々な光を放ちながら浮かんでいた。

そしてその光は、一瞬にして立体的な神聖幾何学多面体になり、目の前に浮かんでいたのだった。

その像は光のホログラムのようであり、私は360度のどの角度からでも見ることが出来た。それは流動的に美しく変化しながら、空間全体を満たしていた。

それと同時に聴覚も突然拡大し、音が鮮明になった。まさにラジオのチューニングがぴったり合ったかのようだった。

一つ一つの音の粒が際立ち、音の中に音が聴こえるような、全体が膨大な音の層の積み重なりだった。あまりにも鮮明に聞こえる音は、光って聞こえてくるのだ。

入れ替わり立ち代る音の粒は、紐のように繋がり解け、まるでダンスを踊っているように絡み合いながら空間全体を満たしていた。

その時々に、創造されて空間に放たれる音は、天界の音でもあり、地底の音でもあり、体内の音でもあり、星々の音でもあった。

空間は広がり、時間は消えた。
何もない、満たされた大宇宙だった。
銀河の星の一つ一つが音だった。

そして私は音であり、宇宙空間だった。

音は宇宙の言語だった。
宇宙の美しい秩序であり
無限の抱擁だった。

私は抱かれる歓喜であり
空間のエクスタシーだった。

そこには自分でないものはなく
全てがわたしではなかった。

全てに存在する意味はなく
ただ在ることに意味があった。

無限に受け入れ
無限に手放していく
永遠の円舞だった。


変化し続ける音の波と、それに続く次元に関しては、私にはただ「美しさ」としてしか認識できなかった。それでいてはるかに美を超えていた。

私は初めてハーモニクスという[「次元を行き来できる乗り物」の洗礼を受けたのだと思う。

あの時の色や音の鮮明さは、私の中で抽象的なアイコンとして意識の引き出しの中にそのまま納まっている。いつでも取り出して解凍し、その領域とひとつになることが出来る。そして、さらに奥深い霊的次元を世界中で体験することになる。

ところが、その領域が何処なのか、何を意味するかには無頓着だった。簡単に行けるのだから、そんなことを知る必要性を感じていなかったのだ。

日常化していく霊的な領域

洞窟での体験以降、私の感覚は変化した。

聴覚をシフトさせると、日常の雑音や、人の声の中に美しい倍音を聞くことが出来た。そしてそれが聴こえる時は、全てが神聖幾何学ように、美しい宇宙の秩序の中で調和しているのだった。

聴覚はエネルギーと関わる時に、とても重要なツールになる。そして多次元の聴覚はさらに拡大し続けるのだ。その過程で、聴覚、視覚、触覚が融合していく。

例えば、その後に体験したヒマラヤ源流でのガンジス川での虹の身体の体験、聖地巡礼での精霊との交流、クリスタルボウルを演奏することで創造する倍音、エクスタシーの中の倍音。それは波動であり、現実よりはるかに鮮やかで実在感のある次元であり、その世界は無限だ。

そしてそれらは、非日常ではなく、日常の奥に必ず存在しているものであると気が付いていくのだ。

それらの体験は何だったのだろうか?

(続く)

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(photo: ©MikaRin)







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