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時の迷い路 第八話

第二章 始動(四)

 その場の全員が会議室の入り口へ視線を向けた。
 衛兵長の言葉を遮った声の主は、お玉と鍋を持った料理長だった。扉を叩きもせず会議室に入ってきたらしい。料理長の眼鏡は鍋から上がる湯気で半分ほど曇り、その湯気にのって部屋の中にほくほくとした南瓜のスープの甘い香りが漂う。料理長の後ろには香草と匙の束を持った見習いの若い料理番が、さらに後ろには焼き立てのパンがたんまり乗った籠を抱えた下男と、十二人分の皿を盆に載せた給仕が並んでいる。
 王女は料理長の発言を聞いて、即座に手元に置いていた砂時計をひっくり返した。
「確かか」
 衛兵長が額をぴくつかせて尋ねる。料理長は料理番と給仕に顎で合図し、自分は鍋を机にどん、と置くと、落ち着き払ってスープを深皿に注ぎ始めた。料理番がそれに青々とした香草を散らし、金色に満たされた深皿と匙を揃えて座の面々の前にちゃきちゃきと小気味よい音を立てて並べていく。
「スープは食事の三番目。主菜の仕上げに取りかかるのは十二時十五分。一時間十分のパンの発酵終了が合図じゃ。気候と生地発酵にかかる時間の関係にかけて、わしの勘は鈍らん」
 言い切った料理長に対して衛兵長は大臣に疑問の視線を送るが、大臣はゆっくりと頷き、厨房の面々もそれに倣う。パンをつまみ上げた下男は砂時計を意味深に見遣った。厨房内で使っている砂時計からしても正確ということだ。
「あんたがたが昼食に来るのは十二時二十分。前菜の後に出すパンは主菜の仕上げと同時に窯に入れる。いいか、この五分の差が肝要じゃ。そこから火が通りきるまで高温で十七分二十秒、焼き色を付け終えるまでで合わせて十九分三十秒、そのころには前菜が席に並べられておる。パンが焼きあがれば、そこからスープの最後の火入れじゃて」
 料理番の後ろについた下男が芳しい香りのパンをほいほいと皿に載せ、給仕がそれを銘々の深皿の横に置いていく。料理長は配膳を監視しながらとくとくと話し続ける。
「新鮮でコクのある乳を足して完成するまでが入魂の五分三十秒、これが無いとスープが情のない不味いもんになる。いつもの食堂なら出来立てを出せるんじゃが、わしが厨房からここまで来ようと思えば、常にきっかり四分じゃ。料理は一分一秒加減を間違ってもいかん。今日の窯の具合や火の具合がいつもと同じかも、わしはきっちり心得ておる」
 今日は食事の場所も順序も狂ったがのう、と、料理長は残念そうに言う。話に割って入っておきながら非常事態など皆無のようなその振る舞いに、衛兵長の額にはみるみる青筋が浮かび上がっていく。しかし彼が何か言うより前に、料理長から衛兵長へパンにつける蜂蜜の壺が渡された。
「空腹になるといらつくのは人間のさがじゃな。ま、まずは皆、腹を満たした方が良い。スープが冷めるわい」
 王女はひと匙スープを口に含み、銀粉の落ちる砂時計を注視する。この砂時計はずいぶんと昔、時計塔を基準に数理博士が発明したらしく、城の厨房以外の調理場や工場でも重宝されてきたものだった。このような形で役に立つとは誰が予想しただろう。
 ――少なくともほぼ正確な時間は手に入ったわ。
 しかし気にかかることはまだある。王女は自室からまっすぐに会議室に向かってしまったが、本当なら通ってくるべき場所があった。
 大臣も同じことを懸念していたのか、下男の青年を呼ぶと二言、三言、囁いた。耳を傾けた下男は一瞬だけ濃紺の目を見開いたが、すぐに頷いて足早に部屋を出ていく。
 大臣は王女に視線で伝える。分かっている。あれが止まったら正真正銘の非常事態だ。
「この砂時計が落ちたら十二時四十九分です。体制を整えるために、私は砂時計につきっきりになることはできません。どなたかに砂時計の管理をお願いします。衛兵長は衛兵を招集して、非常時のために城下の支援体制もとれるよう指示を出して下さい。料理長は念のため、なるべく城の者の食事は節約して、あとあと万が一の時に必要なところへ食料を回せるよう備蓄の計算をしてください」
 続けて王女はそのほかの各部署の長たちに当座の動きを指示し始める。
「国民の不安を煽るのは避けたいですが、遅かれ早かれ時計台の針が止まったことは気付かれるでしょう。それなら、現状ではまだ緊急を要する危険な事態にはないと伝えて、まず民を安心させなければ」
「ならば一刻も早く遠方の町村まで知らせるよう伝書鳩を飛ばし、馬で伝令も派遣しましょう」
 大臣は城下や王都郊外の農村への伝達方法も早急に考案すると請け負い、伝令が市外へ行く前には王女に確認するよう諸官に言い渡した。集まった者たちがそれぞれの責務を了解すると、料理長は空になった鍋を抱え貯蔵庫へ確認に向かう。労務官長は本日の職務を中断し、国境の関所に緊急封鎖の準備を伝えるため、伝書鳩係の元へ急いだ。
 皆が担当部署へ向かい始めると、王女も経理顧問官に砂時計の管理を任せて会議室を飛び出した。
 若い王女を未熟者と見ている老中らの手前、表立っては大臣が城内の指揮を執ってくれる。それならば自分は、自由に動ける分だけできることからやらなければ。
 廊下を突っ切り、全速力で階段を駆け上がる。外遊中の兄王子に連絡を取るべく、現状を必要最低限記して兄王子の大鷲に持たせ、城の塔の上から飛ばした。この大鷲の飛行能力なら天気の急変にも強く、城にいる鳩たちよりも確実かつ速く兄に届くはずだ。外遊から帰城の予定は三日後。いますぐに帰ってこられるとは思っていないが、知らせておくのとおかないのとでは王女の安心感が違った。
 塔から上空へと高度を上げる鷲を見送り、王女はその足で王城内の図書室へと向かう。研究書の類の中に何らかの手掛かりが見つかるかもしれない。
 王女は階段を駆け下りながら、窓から外を見た。
 雲が高い。昨日と何ら変わらず太陽は穏やかに地上を照らしている。そよぐ風は花の香りを運び、王女の長い髪を優しく撫でた。

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