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天空の標 第三十四話

第十二章 秘事(一)


 細く開けた扉の隙間から周囲に人がいないのを確かめて、カエルムは廊に出た。
「どこに行くんです?」
 後についたロスは、極力声をひそめて尋ねる。短刀を懐にしまいながら、カエルムが囁き声で答える。
「露台まで行く。道筋、やや不安がある。案内を頼めるか」
「了解しました」
 ロスは主人の前に進み出て、城の南側へ足を向けた。床に靴音を響かせないよう、二人は滑るように廊下を走り出す。
「でも、平気ですか? 今ここではは無いようですけれど、あんなことがあった後です。誰が我々を影から見ているか分かりませんよ」
 振り向くこともなく、速度も緩めず、ロスが先を見据えたままで問う。全身の神経を使って周囲の気配を読み取ろうとする。差し当たりロスですら人の存在は感じないが、実際は相手がいつ何時、死角から現れて襲って来てもおかしく無い。
「そこは心配することはないさ」
「どうしてですか」
 ロスの心配を余所よそに、カエルムの方はさっぱりとしたものだ。ロスは眉をひそめた。
「むしろだから心配なんじゃないですか?」
「今日我々に許された一連の行動の自由度、そして今の時点で監視がないこの状況。どう考えても当初のテハイザ側の対応や大臣のあからさまな嫌悪とは矛盾している。向こうに二つの意思が働いているとしか思えない」
 確かに城内の散策許可が出ていたり、現在の二人を誰も追ってこなかったりと、部分的には納得できる。しかしそうは言ってもその原因が何か、ロスにはいまいちピンとこない。腑に落ちないまま耳を傾けるロスに、カエルムは続けた。
「それに、向こうが先に仕掛けて来たんだ。ということはもう、こちらが向こうに何をしようが文句を言われる筋合いなど無い。喧嘩は売って来た方が悪い」
 瞳の光を強め、カエルムは自信たっぷりに言う。だから喧嘩じゃない、と言いたいのを我慢して、ロスは長く息を吐き出した。相変わらずな主人の態度は呆れたものだ。その様子に気づいてか気づかないでか、背後でカエルムは飄々と言ってのけた。
「その喧嘩を買ったところで、ロスと私なら大抵の者相手に敗れることはないだろう?」
 誤りではないがどうにも素直に受け取りにくい発言に、ロスは黙って回廊を先へと急いだ。

 ***

 城の南端に位置する露台に出てみると、風雨が身に襲いかかり、雷鳴の中に稲光が走っていた昼間とは全く異なる光景が目の前に広がっていた。日中あれほど激しく荒れ狂っていた嵐はおさまり、柔らかな夜風が頬を撫でる。まだ空に雲は残るものの、風に流れるその隙間からちらちらと星が光るのが見えた。海の波は昨晩と同じように規則正しく律動し、耳に届く潮騒が体の脈動と調和して心地よい。
 カエルムは露台の欄干に進み出て、下方を指し示した。
「思った通りだ。やはり、光がついていない」
 手招きされて、ロスもカエルムの横に並び欄干から身を乗り出す。カエルムの指の先には、例の奇妙な水面。やはりそこだけは僅かな波も立たず、切り取られたように海の中で浮き立って見える。
「光って……さっき言ってたあれですか」
「ああ。昨日の晩は確かに光っていたからな」
 下から吹き上げる風が二人の髪を上方へかき上げた。潮を含んだ重い空気が鼻腔へ入り込む。
「これはもう、もたもたしている時間は無いな。シレアの時計台とテハイザの天球儀、そしてシレアの地下水、加えて水面の光か」
 片方は常に時と天の運動を刻み続ける二つの標。片方は絶えず変化しつつも一定に保たれる水と光の運動。それぞれ対として捉えられるものが、両国どちらにおいても静止した。
「テハイザの方でも異変が重なっているということは、この世界自体の時間と空間に歪みが起きてるのだろう」
「歪み、ですか」
 ロスはそんなことが起こり得るのか、と問いたげな視線を投げる。腕を組んで、カエルムはうなずいた。
「もちろん邪推かも知れない。聞いたことがない話だからな」
「本当なら、友好不可侵をどうこう言ってる場合じゃないですね」
「交渉はもう、向こうの態度によっては後ででもいい。国に人災がなければとは言ったが、あまりに奇妙なことが続きすぎる。これは混乱がいつ何時なんどき暴動に繋がってもおかしく無い。シレア国民が暴徒化することはないにしろ——」
「特にテハイザの暴動は国を超えるでしょう。かなりの確率で。とは言ったって……」
 人心の不安は度を越すと普段なら考えられない行動へ繋がる。それを危ぶむのはもっともだった。しかし、目の前にある異常は自分たちの力が及ぶところなのか。
 そう自己の懸念を述べるロスに対して、カエルムの方は落ち着き払っている。
「人の力を越えたものであることは確かだ。だが、解決策が皆無とは限らない」
「何か、考えでもある…………!?」
 問いかけた途中で、ロスが突然言葉を切り、カエルムの腕を引いて二人一緒に城内部に通じる扉まで身を退げる。
 今しがたもたれかかっていた欄干の方を見ると、手摺りの向こうの夜闇の中で一部だけぼんやりとした光が浮かび上がった。

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