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天空の標 第四十九話

終章 旅の終わり

 石壁に囲まれた部屋の中は、水面に落ちる滴の音さえしない。
 何ものも動かない。時が止まったように。
 そもそも時間は「流れている」ものなのだろうか。それは人間の意識でしかないのかもしれない。
 しかしそれでも、「過去」という名で呼ばれる瞬間は積み重なっており、「未来」と呼ばれる瞬間のことは我々にはわからない。そして「時」と呼ぶものの流れる方向が定まらなければ、自己の生命が辿る道も見失ってしまう。
 川が常に上流から下流へ、山の頂から海へ向かって流れるように、過去から未来へというその決まった方向が、我々の意識の中にある「時」を、留まることも遡ることもせぬものとする。そして初めて「時間」という名の秩序が生まれる。
 四方もまた、同じ。
 自らを支点と定め、在る処、向かうべき処を名付け、定める。
 自らの場が失われたとき、均衡は崩れ、向かう方向を失ったとき、流れは滞る。
 時の歩みは、草木を育む天の陽と共にある。
 大地を潤す川が目指す先は、海だ。
 手の上で光るテハイザの宝。海の色を閉じ込めた碧玉と、水に生きる桜珊瑚。シューザリエ大河の行き着くところに、その二つはある。
 そして秩序を守り、国の人々の安寧の地を約束する者、向かうべき未来を指し示すべき者は——
 水流の途絶えた石壁を見据え、カエルムは留め具を水面へ放り投げた。
 弧を描いて飛んだ碧玉のきらめきが沈んで見えなくなるまで見守り、踵を返して部屋の外へ飛び出す。
 耳に蘇るのは、規則的な律動を生む、祭りの鈴と鼓の音。
 ——時計台へ……!

 ***

 ——国の主、南の十字に向き合いて、石を投ず。子孫続く拠り所とせんと、己が立つ地を定めん。
 この地に降り立った祖先は、天の星辰に照らし合わせ、この城の位置から——自らの立つところを基準として、四方を求めた。
 ——水に投げ入れた石は、海に漕ぎでた者が必ず帰るべきこの地を中心に、南北の方向を知らしめる。
 窓の外に身を乗り出す。テハイザ王の顔に熱風が吹き当たり、舞い踊る火の粉が視界を遮る。思わず瞼を閉じてしまいたくなる熱気に抗い、水平線の上に広がる薄明の空に、白い光の粒を探す。暁色の天空の中でも、輝きを失わない星がある。
 星影を火焔の向こうに認める。まばゆい輝きを視界に留めたまま、テハイザ王は火柱の方へ腕を伸ばした。
 ——いまいちど、四方を。
 上空へ昇る炎の渦の中心めがけて神器を投げる。石が手を離れた瞬間、勢いを増した炎の舌が眼前に襲いかかった。

 *

 
 全ての感覚が失くなった。そう思ったのと、ほぼ同時である。
 秋の澄んだ夜気を突き抜けて、鐘楼の鐘の音が響きわたった。

 *

 テハイザ王は炎の熱から顔を庇った腕を離した。自分を襲った火柱は消え、目の前に広がるのは暗い海。そして彼方の水平線すれすれに燦然と輝く、南十字星。

 *

 空気を微かに震わせる鈴と鼓の音が、白夜の中に秩序を作り出す。
 その微弱な振動を身に感じながら城下を馳せる。
 全身に走る、刹那的な衝撃。それと同時にカエルムの耳が、頬の横を抜ける風の音の中に懐かしい響きをとらえた。
 顔を上げれば、尾根に走るくれないの筋がその響きとともに立ち消えた。
 妙なる音は城下を抜け、森林を通り、人に聞こえぬ調べに変わっても、風に乗って遥か彼方かなた、海の方へ抜けていく。

 *

 火柱の消えた窓辺に駆け寄って、テハイザ王は真下の海を見た。月明かりを映さぬ新月の海でただ一つ、三方を壁に囲まれた中で、水面が陽光のごとく光彩を放っている。先に見た漆黒の闇は消え、煌々たる輝きの中には一点の曇りすらない。
 円い光の輪の上に、細長い石が浮かび上がった。波のない水の上で石片は僅かに振れ、動きを止めた。石の先が指す先には、南十字星。
 室内へ振り返ると、誰の手も触れぬまま天球儀が回り始めている。球はかすかな音も立てず急速に自転を続け、やがてぴたりと止まった——止まった《《ように》》見えた。
 「南」の文字盤のすぐ上で、十字の線が蝋燭の灯を受けて輝く。
 球面に描かれた無数の星屑は、海上の夜空に散りばめられた星々の位置を写し出していた。

 *

 鐘楼の鐘の音は、十二回。いま一瞬前までの過ぎた日の終わりと、たったいま訪れた新たな一日の始まりを告げる。
 悠然と立つシレアの時計台が眼前に近づく。美しい文字盤の上で、二つの針が揃って真上を指している。
 時計台の踊り場に、祭の衣装に身を包んだ妹王女が見えた。こちらに気づいたのか、王女の細い手が高く上がる。

 月の姿のない新月の夜。また今日から新しく、天の巡りが始まる。
 吸い込まれそうな深い空に、秋の星辰がまばゆく煌めいた。

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